ビオットBiotのささやかな思い出

真っ赤に開いた口。実際には見たことはないが地獄の釜を覗くような口。これはガラスを加工する炉の口である(写真右)。
年に数回、東日本橋にあるオステルリー・ラベイ(Hostellerie L'Abbaye大修道院という名の田舎風レストラン/ホテル、というような意味)という南仏料理レストランを訪れる。料理は味も形も申し分なく素晴らしいしお店の人の接客も素晴らしい。ゆったりとした至福の時を過ごすぼくの「隠れ屋」である。シェフは冨山さんという。フランスの幾つかの都市で修行を重ねられたそうだ。それらの日々にお住まいになったところの一つがガラス工芸で有名な小さな町ビオット。ニースとカンヌの間に位置し、国鉄からビオットの街への公共交通手段はバスのみである。
 料理をいただいた後の一時、冨山さんとお話を交わしていると、ぼくのフランス滞在&旅が脳裏というスクリーンに映し出されては消える。そして、強い郷愁を覚えるのだ。故郷ではあり得ないのに。
 Biotを初めて訪問したのは1998年のこと。フレネ教育研修旅行集団の一員としての旅の途中であった。ただし、ガラス工房とお店に、「日本へのお土産にいかがですか。」とガイドに勧められて立ち寄っただけだ。ここがどんな町であったのかの記憶に残されないほど、慌ただしい立ち寄りだった。
次に訪問したのが2003年3月である。この時もフレネ教育研修の帰路に「ガラス工房をじっくり見たい」と思い立ち立ち寄ったのだが、少しは行動に余裕が出た。町の中央広場噴水のところで子どもたちが集い、綿菓子を手にしているのに気付き、カメラに収めたり、古い家屋の壁に宗教伝道の像を見つけたりして喜んだ。ちょうどお昼時になり、店々がしまったので、高台の公園に上がってベンチに腰を下ろしフランスサンドイッチを頬張りながら、土地のボス猫だろうか、ぼくと通訳さんとの行動を監視するがごとくの彼と「会話」を試みようとした。「この猫、日本語通じますかねぇ。」ぼくのアホ語りに、通訳さん、ウンともスンとも返事しなかったので、「あら、日本語が通じないのは猫だけじゃないな。」と、少し大きめの独り言を出して、時の退屈を紛らわせた。上は街から公園への階段道。



 ビオットはガラスだけではなく「壺」にも因縁があるようだ。説明を聞いたのだがすっかり忘れてしまっている。(上)博物館展示壺、(下)家屋壁填め込み壺。


 ビオットの、ぼくのもっともあこがれるところの、「取り残されたような光景」にも強く心を引かれた。これはあくまでもぼくの心象風景である。


 街の教会に入る。いつものごとし。そしてこの教会の支配区つまりパロワスの、この街の歴史を探る。この街にも大きな戦の犠牲者(「英雄」)がいる。ちょうど「パリ・コミューン」研究に没頭している時であっただけに、教会と戦争犠牲者との深い関係に、神経が強く働いた。



 語学力が「達者じゃない以前」の状態でポスターやら看板やらを眺める。知っている字句や人名に出会うとじっくりと読む。後で思うととんでもない間違い読みをしていることの方が多い。そんな失敗を繰り返しながら、ぼくは、言葉や歴史を知ってきた。ビオットでもそんな出会いがあった。
 上に触れた「パリ・コミューン」研究に関わって、ヴィクトール・ユゴーの視点から「パリ・コミューン」を理解しようと努めていた頃だった。ビオットのどこでだったか、「ヴィクトル・ユゴー絵画展」の文字が目に入った。これは是非見なくてはなるまい。ビオット地図とポスターに綴られている絵画展会場のアトリエ住所とを頼りに、くだんのアトリエに入った。小さな個人アトリエだったが、ユゴーの絵などどこにもない。「それはぼくが開いたユゴーの絵の模写展のポスターを売っているよという案内だよ。」と大声で笑われた。そのポスターも50作成したが残部が少しだけだ、という。買い求めて研究室に持ち帰り、一時ドアに飾っておいた。誰も、これは何ですか?と問わない。
 くだんの画伯、写真を撮りたいと申し出ると、快く受けてくれた。おまけにご家族もだ。こんな機会など、滅多にない。


 
地中海は煌めいていた。