セガン第2論文

 セガンが1839年に発表した第2論文「子息の教育についてのO氏への助言」は、かれの初期白痴教育の具体をみることができる。セガン研究では丹念に論じられなければならないはずだが、先行研究で、分析的構造的にこの論文をとらえているのを見いだし得ない。なぜなのだろう。
 昨日からの作業は、この論文の訳文の再検討。一つはぼく自身の訳文、そしてあと一つは故中野善達氏の訳文。二つの訳文を対比することによって、ぼく自身の訳文の完成度を上げていくつもりだ。
 起床から就寝にいたる子どもの一日を想定的に綴っている。なるほど、日々の暮らしぶりは子どもの全人格〔全能力〕の具体と課題との絶好の素材である。どういう目線で見るか、つまり人格〔能力〕の構造をどうとらえるか、という命題がなければ、何も見えることはない。セガンは人格〔能力〕を「身体」「知性」「精神」の三層〔あるいは、側面。このあたりまだぼく自身、適切なタームが思いつかない。それだけセガンを分かっていないということ〕で捉えている。
 ルソーの影響? そんなモノ、影も見えない。
 ペスタロッチの実物教育との相似は見られる。
 ぼくの下訳はHP「川口幸宏随想集・玄冬期」にアップしてあるが、やがて大改訂されることだろう。
 HPアドレス:
 http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~920061/

 ルソーの影響といえば、昨夜ネット・サーフィンをしていたら、ルソー『エミール』を批判的に考察しているサイトに出会った。
http://uramonken.at.webry.info/200712/article_1.html
『エミール』が民主主義教育の教典にされてきているが、『エミール』は諸差別の書、とても近代性〔民主主義性〕を顕現するものではない、という文脈の中で、セガンにも触れられている。「障害者差別を高らかに謳っている『エミール』の影響を受けているというが、そうだとしたら、『エミール』を誤読したのだろう。」という趣旨。自宅・自室だったので、声を大にして笑った。「誤読」ねえ。
 セガンが『エミール』の影響を受けて白痴教育をおこなったというのは幻想でしかないことはぼく自身が言い続け論証し続けていることなので、この論者の論拠は一体どこにあるのかと大きくいぶかったが、それ以上に、先哲から学ぶということの意味がまるきり分かっていないこの論者の面を見たくもなった。『エミール』は近代的な意味での差別の書ではあるが、発達の書という意味ではそれがそのまま近代教育の本質を生み出しているのだぞ。
 ぼく自身もルソーの近代的差別の問題、とりわけ子棄てをテーマにして、エッセイを書いたことがある。
「研究ノート:ジャン・ジャック・ルソー『エミール』を読む―「捨てる」と「拾う」との共時的社会の中のルソーの「子捨て」と『エミール』」
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~920061/rousseaunote.htm