懐かしさ再見

 体調の調整のため、終日自室に閉じこもっている。
 散歩リハビリで緊張を強いられた筋肉をほぐすために風呂に浸かる。それはいいのだが、風呂上がりが大仕事。身体を丹念に拭くことはもうあきらめた。左手の融通が利かないので背中を拭くことができないのだ(もちろん、「洗う」こともできません)。そして、下着から室内着までワンセット身にまとうまでどれほどの時間が掛かると思いますか?とにかく脚と腕とが動きにくく、身体全体も歳のせいだろう固くて自由性が利かない。病院にいる時には看護師さんが介助してくれていたのでこれほど苦労するとは考えてもいなかった。「介護保険」の検査の時に「自力で服の脱着が可能ですか?」と訊ねられ、ワイシャツ等のボタンを塡めるのにちょっと苦労するけれど大丈夫です、と答えたが、じつは大丈夫じゃない現実が待っていたのだ。
 浴槽から出る。とにかく大まかに(それしかできない)水滴を拭く、背中は右手に持ったタオルを後に振り身体を叩く、その後はバスタオルを抱え浴室の前の居室に裸で飛び込む(別に我が家なのだから「飛び込む」ことはしなくてもいいのだろうけれど、ぼく以外人間の♂はいない家なので、一応)、バスタオルを畳の上に広げその上に裸体を背中から倒しゴロンゴロンと転がる、これで水滴は拭うことができる。その後衣服着用作業となる。大仕事。
 でもまあ、できないのではなく、できるのです。時間はたっぷりある身分です。どうだ、うらやましいだろう。でもこれが、晩秋以降も続くのかと不安になる。せっかく温まった身体もすっかり冷え切ってしまいますものね。グジグジ。ああ。
 着衣作業のもどかしさの間に、ふと「ふるさとの」という歌謡のメロディーが口をついて出た。そんなもん、中学校2年生の音楽の教科書の「参照歌」として楽譜と歌詞とが載っていただけ、当然、授業で習ったことはない。教科書の譜面を見ながら、自宅のピアノでポロンポロンと演奏し、「勉強に飽きた」深夜に,大声で、歌詞入りで歌った、という記憶があるだけだ。余計な思い出は、何度目かのその行為の時、ガラス窓に石をぶつけられた、ということ。よほどうるさかったんだろうなあ。変声期の蛮声だもん、生理的には、よく分かる。
 でも、今日は、「ふるーさとぉのぉ♪」と、無意識下のぼくが何を意識してか、哀調ある歌い出しを口ずさみはじめた。が、その先が思い出せない。三木露風作詞であるとまでは思い出した。早速ネットで調べた。
 
   ふるさとの  作詞:三木露風、作曲:斎藤佳三
 1.ふるさとの 小野の木立に
   笛の音の うるむ月夜や
 2.少女子は あつき心に
   そをば聞き 涙ながしき
 3.十年(ととせ)経ぬ 同じ心に
   君泣くや 母となりても
 
 まあ、初恋の歌ですね。それは心のふるさとでもあります。そんな思いを重ねる我が老軀。絵画化すると、気色悪いですが、健康な肉体を喪失した心が、健康な肉体を切なく思い出している、と思って下さいな。