卒業式

 新しい世界に飛び立つ若人たちを送り出すこの日。何人かが研究室に顔を出し、卒業を報告してくれた。教師になりゆく者、「企業」に従業する者。それぞれが晴れがましい。
 鈴さんが東北大学修士課程修了の報告に来てくれた。研究者になるべく博士課程に進むことも考えたが、社会人として巣立つことを表看板にし、研究を裏看板にすることに決めたという。ぼくの研究の理解者のお一人である。新しい世界に幸いあれ。幸い東京に戻ってこられるとかで、これからの交誼いただくことができるだろう。
 貴婦人が寝込んでおられるとか。心配。

 1871年の今日3月20日、ラ・コミューン・ド・パリの広報紙が発刊された。この号の巻頭に、以下の「宣言」が掲載されている。

 もし国民衛兵隊の中央委員会が政府であるならば 、その有権者の尊厳のために、中央委員会は自身を弁護するのを退けることができるだろう。同時にまた、まず断言しておくことは、「中央委員会は、大衆の一吹きによって覆された人々の地位を奪取するとは決して主張していないということ」を明言するし、権限を委譲し、明示された制限内に誠実にきちんととどまっているならば、中央委員会は自分を守る権利を持つ名士との折り合いを続ける。
 共和国っ子 は、偉大な言葉:友愛をスローガンに書き、その誹謗者を許す。しかし、無知によって中傷を受け入れてきている誠実な人々には説得することを望むものである。
 共和国っ子は何ら秘密のたくらみをもっているものではない。そのメンバーはその名前をすべての掲示物に記載してきた。たとえその名前が曖昧にされることがよくあるとしても、責任を逃れるものではない。−つまり、責任は重大である。
 共和国っ子は無名 なのではない。215の大隊からなる国民衛兵隊の選挙の自由な表現に由来するからである。
 共和国っ子は争乱の挑発者なのではない。国民衛兵隊は、共和国っ子に指揮を承認する、という光栄に浴しており、暴力も報復も犯していないし、自らの賢明かつ節度ある行動によって堂々かつ毅然としていることを示しているのだ。
 しかし挑発行為はなくなっていない。それでも政府は、さらに恥ずべきやり方によって、さらに恐ろしい犯罪の、つまり内乱の、試みを広げることを止めようとしていないのだ。
 政府はパリを誹ってきたし、その一方でパリに対して地方をけしかけてきた 。
 政府は我々に対して軍隊の我が兄弟を差し向け、寒さで死なせた。家族が兄弟を待っているというのに、我々のところで 。
 政府は我々に総司令官を認めさせることを望んでいる。
 政府は、夜間の企てによって、我が大砲を取り上げようとしてきた。プロイセンに引き渡すことが我々によって阻止される以前にだ 。
 最後に、政府は、度を失ったボルドゥの共犯者の援助を得て、こんなふうに言っている、「おまえは自分を英雄的に見せ始めたばかりである。ところで、我々はおまえに恐怖を抱いている。それゆえ、我々はおまえの王冠を首都から奪い取る。 」と。
 中央委員会はこのような非難に応えるために、何をしてきたか?それは連合組織を設立することだ。節度を説くことだ、寛大、の言葉を言うことだ。ちょうど軍事攻撃が始まったときに、中央委員会はすべての人々に次のように言っている、「襲撃も、まして最後の手段である反撃も、断じてしない。」と。
 中央委員会は自身に、全知、全能を求めてきた。中央委員会は士官部隊の協力を求めてきた。中央委員会は、共和国の名でたたくことがあれば、いつでも、誰にでも、門戸を開いてきている。
 さて、どの陣営が権利であり公正なのか?どの陣営が欺瞞なのか?
 上記のいきさつではあまりにも不十分であり、それぞれがまだ記憶に残ることのないほど、我々に近すぎるのだ。もし我々が自身を撤回する日の直前にいきさつを綴るとするならば、ただただ中傷するだけの人々にお似合いな誹謗を迂闊にも受け入れてしまった誠実な人々のために、そのいきさつを繰り返し語ろう。
 我々に向けられた後者のより激しい怒りの原因は、我々の名前が無名だということである。ああ!世の中には名士がたくさんいる、これらの名士がいかに多くの不幸をもたらしたことか。
 彼らが我々に対して用いてきた最後の手段を知りたかろう?彼らは、大衆に向けて撃つような武装を解除するままでいることを強く求める軍隊に、パンを拒否したのだ。そればかりか我々を殺人者と呼び、飢餓という手段で、人を殺すことを拒否するのを、処罰している!
 何よりも、我々は義憤をもって次のことを言いたい。我々の名誉を糾弾しようとする血まみれの汚辱は恥ずべき不名誉である。死刑執行の判決は我々によって署名されたのではない 。国民衛兵隊は殺人の実行には決して荷担することはない、と。
 彼らはそれにどんな利益を得たらよかったというのか?我々はそれにどんな利益を得ればいいのだろうか?
 それほどに卑しむべきことは愚かしいことなのだ。
 なお、我々を弁護することはほとんど恥ずかしいことだ。我々の行動は、要するに、我々のあるがままを示している。我々は俸給や栄達を切望しただろうか?もし我々が無名であり、215の大隊を作り、その上、その信頼を獲得することができるとしても、名声を得ることはたわいもないことである。若干の空虚な美辞麗句と少しばかりの卑劣な精神を持っていれば、十分である。このことはつい最近のことで証明された。
 我々は、我々の頭にすばらしい責任を重くのしかからせている任務を負う。我々はそれを成し遂げる。ためらうことなく、恐れずに。いよいよ我々が目的に到達するにあたって、人民にたいし、しばしば性急さでぐちゃぐちゃになるけれども、我々の告示に耳を傾けてくれることを我々は高く評価している。我々は人民に言う。「ここに人民が我々に委託した任務がある。我々の個人的な利益が最初にあった場合には、我々の義務は終わる。君の望みに従う。我が主人、君は自身で自由を勝ち取る。数日前に無名の者、我々は君の階級の中に無名の者として立ち返る。そして統治者に誰でも下野することができるということを示す。堂々と、君のオテル・ド・ヴィル(市庁舎)の階段を降りる、少なくとも君の誠実で揺るぎない手を握りしめるという確信を持って。」