「おねえさん」、久しぶりに登場

 研究室を訪ねてきた「おねえさん」、「わー、広くなった!」。長机一つ片付けたこと、山積みになっていた紙束を整理したことで、視界が広がったよう。ふだんいかに散らかしているかが暴露されたようなもの。某教室の新しい研究誌発行について打ち合わせ。見積もりをはるかにオーバーする原稿の集まり。普通は嬉しい悲鳴なんだろうけどな。
 「オネジム=エドゥアール・セガンのイディオ教育論著作解題」のリライト開始。1.社会改革運動の一環としての「白痴教育」という位置づけを前面に出すこと、2.ルソー『エミール』を意識したセガンの白痴教育論の普遍化であることを強調すること。生誕200周年にふさわしく。「はじめに」を以下のように綴る。
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はじめに〜オネジム=エドゥアール・セガン、その人と業績
 1812年1月20日、フランス、ブルゴーニュ地方クラムシーに生まれる。少年期に古都オーセールの名門コレージュ(ジャック・アミヨ校)で学業の基礎を学ぶ。その後パリに出て、エリート予備軍養成の特級コレージュ(サン=ルイ校)に学ぶも、折からの社会改革運動によって引き起こされた1830年7月革命に荷担した。その後も引き続き、社会改革の運動に挺身する。1836年には芸術評論を著し、1837年になると白痴教育(知的障害(イディオ)教育)開拓の道に踏み込むが、それらの諸活動は社会改革運動の一環であった。
 19世紀の前半期には白痴教育は精神医学が実験的に進めていた。セガンの白痴教育はそれらと交渉しながらも独自な内容と方法とを有し、また、確かな人格的発達を成果として産み出していた。しかし、一介の社会運動家が担い続けるには、その成果が確かなものであればあるだけ、医学界からの反目を強く受けることになる。1843年暮れ、パリ南郊外の医療・福祉施設ビセートル救済院(男子養老院)の「学校」で勤めていた「白痴の教師」を罷免されるという結果が待っていた。
 1848年2月革命期に「労働者の権利クラブ」などを組織するも、1850年頃、自由を求めてアメリカに渡り、「白痴教育の使徒」としての任などを務めた。1880年10月、赤痢に罹病し、その生涯を閉じた。最晩年に通学制の生理学的教育方法に基づく学校を創設したが、セガンが生涯掛けて探究した教育理論の結実であった。
 我が国における体系的なセガン研究として、清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流−研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年。2005年度日本社会事業史学会文献資料賞受賞作品)、川口幸宏『知的障害(イディオ)教育の開拓者セガン−孤立から社会化への探究』(新日本出版社、2010年)があるが、セガンの全生涯を明らかにする体系的研究は川口の研究−生誕からフランスを去るまでの半生史研究−によってようやく端緒についたといっても過言ではないほどに、彼の業績と名声の割には全体像が漠としている。」