ある教育批評

 1年生の授業潜り学生から提出された「受講感想」より−
「とくに日本の教育全体に当てはめて言えることの一つに”頭脳のマッチボックス化”を挙げることができると考える。知識偏重型だ、という教育界の批判の本質はこの部分にあるのではないか?何かを指定された条件・範囲で覚え、そしてインプットとアウトプットを繰り返す・・・・・まるで生きた人間の生きた脳が、ただ、敷き布団を出したり入れたりする、または便利な収納性を兼ね備えた「オシイレ」や「タンス」になっていないだろうか?頭は単なる倉庫ではなく、既存の事物を再組織化する身体器官の一部なのであると、この講義でも従来持っていた自己の思想に対する認識を強くした。思考を試す知的学習に身体性が伴わないとは、中、高、大学教育においては「対話的学習」が行われていないことに等しい。本を通じた世界との関係の築き方、自己との対話、先生との対話、クラスメイトとの対話・・・。まさに学校の道徳教育とはそのまま生の身体に訴えかける科目と思うのである。この教科に国定教科書がないことも驚くに値しないことであります。さらに、指導する立場の人間に対しても、演技を課して身体を駆使した授業構想を模倣させる点で、この講義は、教師に対しても「生徒との対話」「自身との対話」を見事に促すことに成功しているのではないか。
 個性とは身体性。まさにこのこと。こう見てくると、文科省の「個性を育む教育」や「個性的な人材の育成」も陳腐に見えますね。私は聞きたい、その人たちに。個性は作れるものなのか?教えれば個性が芽生えるのか?もはやその言葉が自己矛盾してしまっていることに、賢い生徒、教育者なら分かるであろう。
 Thank you ありがとう  観ていて面白い講義でした。また来年来るかもしれない。空席があればの話だが。」
 経済学部1年生の学生だとか。「道徳教育の研究」の授業を「身体性に重点を置いた包括的な道徳教育」と特徴付けている。