腰が上がらない

 そろそろ「育療」論文執筆活動にはいろうと思い、机に向かうが、意気が揚がらず。これまでのデータを見直しつつ、ため息をつく。どこをコアにして「セガン」を捉え直そうか。
○アリサちゃんの問題意識レポートのチェック。病弱児教育とその施設政策のあり方に明確にシフトしており、もうぼくが教わるばかりの状態。一カ所、文章表現の問題で指摘。
○アリサちゃんを通してココさんからバースデーカードが届く。パワーポイント作品。ありがとうございます。、
★やはり、ここからもう一度見直そう。2005年7月の執筆。「幻」の報告文書。P氏よりいわば言論弾圧を受け、お蔵入りさせたものだ。
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セガンの秘密 ―フランス時代
・・・ さて、報告させていただく表題は「セガンの秘密 −フランス時代」でありますが、1840年代の初めごろに、ウージェーヌ・シューという大衆小説作家が新聞連載小説『パリの秘密』を発表し、大変な人気を呼びました。この小説の中に、エドゥアール・セガンが教師の身分で知的障害児者教育に取り組んでいたビセートル救済院−ここは現在では一大総合病院となっておりますが、当時は男子養老院がメイン施設であり、男子のいわゆる精神病者が隔離収容されている施設も併せ持っておりました−が描かれており、セガンの実践の場である「学校」のことも描かれております。報告題はこの小説題名をもじっただけというなんとも芸のないことであることをあらかじめお断りいたしておきます。
 時間の関係もございますので、「セガンの秘密」を3つに限ってお話させていただきます。
 第一の「秘密」はセガン家の家系に関してであります。私がセガンについて学ばせていただいたのは、アメリカ、フランス、そしてわが国の諸先輩の研究やエッセイなどからでありました。それらを総合すると、エドゥアール・セガンという傑出した人物を生み出したセガン家というのは、フランス東南部のブルゴーニュ地方クラムシーという小さな町を舞台として代々医師を務めてきた名家である、ということであります。名家と聞いただけで私は拒否反応を起こす気質でありますので、セガンを学び始めた2003年当時にはセガン家の中には入りたくない、覗きたくないなぁ、という気持ちになりました。しかし、今から30年余前、清水寛先生から「研究をするということは先人が歩いた道を重ね歩いたうえで、新たに道を開拓することだ」と厳しいご指導をいただいたことが思い起こされ、先人たちの研究の追跡調査に取り掛かったわけであります。
 結論的に申し上げますと、エドゥアール・セガンが生誕したクラムシーという町には、父ジャック・オネジム・セガンが、医学博士として、その地方の風土病との闘いを胸に秘めて入植したのであり、セガン家はクラムシーから北へ10キロほど離れたクーランジュというところで父祖から続いていた家系ではあるが、医師は一人としていなかった、ということであります。セガンの祖父がクラムシーではなくクーランジュで薪材商を営んでいたことは父親の出生届に明記されております。エドゥアール・セガンの母親はクラムシーから北へ45キロほど離れたオーセールというところの商人ユザンヌ家の出であり、名をマルグレットと言い、17歳のときジャック・オネジムと結婚をしております。ジャック・オネジム30歳のときでありました。なお、二人の結婚時には、セガンの父方の祖父母ともすでに亡くなっております。いずれにいたしましても、医学博士というのは、決して豊かではない地方では、フランス語で申しますと「コック・ド・ヴィラージュ」−「村一番の持て男」という意味であります−階層であったことは間違いありません。つまり、セガンは、クラムシーにおける特権的な階層にあった父親を持っていたわけであります。
 さて、第2の「秘密」でありますが、セガンの学歴にかかわることであります。フランスにおけるセガンの最新の研究では、彼は、オーセール、続いてパリのコレージュで学び、1832年にパリの法学部に学籍登録をした、とあります。そして、1841年8月の妹アントワネット=コンスタンスの結婚に際しセガンは「弁護士」という肩書きで立会人を務めた、と言います。当時の弁護士資格から逆算いたしますと、法学士の資格を得、弁護士の実務訓練を終えるには最低6年間が必要です。この最低年数を1832年に加算いたしますと1838年に弁護士資格を得たという計算になります。しかし、この頃はすでにセガンは「白痴」教育の道に踏み出しております。私に素朴な、じつに単純な疑問がわいてきました。弁護士の実務訓練−これは弁護士事務所に所属して訓練を受けます―期間中の身でどうして、ずぶの素人が世に名を売るほどの成果を生み出した実践ができたのだろうか、と。俺にできないことは他の人にできないに等しい、などと思いおごるつもりなど毛頭ありませんけれど、やはりきちんとした史資料を探し出さなければなるまい、と考えたわけであります。いわゆる学籍調査と称するものです。それにはさまざまなことがありましたが、やはり結論だけを申し上げることにいたします。
 セガンは組織的な初等教育を受けておりません。フランスはアカデミーという学区制がありますが、クラムシーはディジョン・アカデミー、オーセールはパリ・アカデミーに区分されておりました。セガンは、アカデミーを超えて、1825年、13歳の時、母親の出身地であるオーセールにある王立コレージュに入学しております。続いて1828年にパリの王立コレージュであるサン=ルイ校の数学特別進学クラスに進んでおります。当時コレージュには公立校と王立校とがあり、中でも王立校はエリート予備軍を育成しておりました。サン=ルイ校はとりわけ特権的な位置を占め、超エリート人材を育成し、グラン・ゼコールという特段に優れたエリート生徒たちが進学する学校でありました。彼は数学特別進学クラスで第4次席賞を受賞しておりますから際立って優秀な生徒であったことは間違いありません。グラン・ゼコールの一つエコール・ポリテクニックへ間違いなく進学できる成績を収めていたわけです。しかし、彼は、1830年11月に法学部に学籍登録をしております。この、いわば重大な針路変更こそ、セガンの「謎中の謎」と言えるものであります。
 法学部入学が1830年であることが判明した以上、先ほどの加算計算、そして「白痴」教育の実践開始時期との間には矛盾が生じません。やれやれ、と言ったところでありますが、歴史は平気で裏切りをしてくれます。と申しますのは、「パリ法学部の学籍簿」に記載されているエドゥアール・セガンの項によりますと、法学部在籍は、非連続ではありますが、1841年9月24日まで続き、しかも修了をしておりません。つまりセガンは法学士という学位を取得していないわけであります。このことは妹の結婚に際する証明書に記載されたという「弁護士」という肩書きは詐称であることを意味しております。
 平たく言うとうそつき、あるいは見栄っ張りというところになりますが、これをセガンの人格攻撃の材料として使うつもりは毛頭ありません。アメリカの社会学者のトレントjrがセガンは女性解放の主張者であったのに彼の文章の中には母親の名前も妻の名前も一切出てこない、と揶揄的に指摘しておりますが、私はトレントとは違った視点から、セガンのこの詐称を、その根源はセガンの家族関係あるいは家族認識にあるのではないか、と考えております。セガンの最晩年の著書『教育に関する報告』に、王立コレージュの寄宿舎の様子を描く場面があります。まるで野性のサルを調教するごとき抑圧状態、つまり人間らしい可能性を見せることができないネットワークが張られていると非常に激しい口調で述べておりますが、その最後にたいそう気になる文言を見ることができます。「ヴァカンスの間に、これらのサルがその母、姉妹、知人に向けては、抑圧された性質を見せている・・・。しかしながら、家族の外では、彼らはこの関係に対して、否定的で反社会的な抵抗の精神を持ち込んでいるであろう。」とあります。家族の前ではまさに「いい子」であるが、その実質においては、家族から見れば否定的で反社会的な心を養っている、というわけです。あくまでも類推でしかありませんが、セガンは、その幼少期から家族の大きな期待を背負ってきた、そしてその期待を裏切ることなくパリの特権的な王立コレージュに進み、その果実を示してきた、しかしながら何らかの出会いによって、その果実を熟させることなく落としてしまった、落としはしたが、家族の期待に応えうるような新しい果実を実らせようとし続けた。いわば、かなり強い家族コンプレックスが彼の内心にはあったのではないかと思うわけであります。
 彼の幼少年期の体験を彼自身が描いている文章を分析的に見ますと、「パパ」をモデルとした「手遊び」の真似び体験、家のすぐ近くの小麦市をじっと見つめるといういわば観察体験が気になります。体全身を動かすという身体経験が描かれていないのです。セガンの「白痴」教育実践では運動機能訓練が極めて重視されていることとあまりにも異なっています。セガンの幼少体験は、いわば静的な体験と言っていいでしょう。このことと関係があるかどうか分かりません、関係がないのかもしれません、彼は20歳のときに徴兵検査を受けておりますが、そのときに「右手奇形にして身体虚弱」と診断されております。それでも召集兵くじを引き当てたのですから、軍事に従属することは可能なほどの体力はあったのでしょうか。余談ですが、彼は、どのような手段を使ったのか分かりませんが、召集兵となることはありませんでした。セガンを知る人―同時代人−が記すセガン像では、日常は静的であるが、不利益がかかるとなると攻撃的であったそうです。セガンの代表的な1846年の700ページ余に上る大著にはこうしたセガンの性格が如実に現れているそうであります。あるいは、私がささやかながら読んだセガンの文章は、どこか詩的でありながら、いきなり饒舌になるなど、なかなか複雑であります。
 さて、最後に第3の「秘密」の話をさせていただきます。
 清水寛先生からセガンのフランス時代についてのさまざまな調査課題をいただきましたが、そのひとつが、パリでの居住地についてでありました。フランスの最新の研究を追跡調査していく中で、先ほど申しました学籍調査によって、サン=ルイ王立コレージュ時代には寄宿制の私塾(パンシヨン)に身を寄せていたこと、法学部時代には3箇所に居住を定めていたことが判明しました。コレージュ時代のパンシヨンの住所は未調査です。法学部については、いつからいつまで居住していたかについては記載されておりませんが、推測あるいは他の資料を補うことによって多少のことはお話できるかと思います。
 rue Sainte Anne 24 (サン=タンヌ通り24)
 rue D’enfer 7(ダンフェル通り7)
 374 Saint Denis(サン=ドゥニ374)
 学籍簿では最初の2事項に抹消線が引かれております。このことから上から順に住所を変えたことが推測されます。学籍登録資格(バカロレア)を都合4度行使していること、判明しているセガンの社会的活動などから類推して、1830年がサン=タンヌ通り24、1833年がダンフェル通り7、1841年がサン=ドゥニ通り374であろうと思われます。また、公教育大臣が視学長官に宛てた手紙の中で−これはセガンが「白痴」教育の成果を挙げた成果を公的に確かめる場を認めてほしいということを公教育大臣に直訴した受けたもので、セガンが1840年1月に私立学校を開設する端緒となる重要な文書であります−、1839年9月6日現在で41 rue de la Chaussee d’Antin(ラ・ショッセー・ダンタン通り41)にセガンが居住していることを示しております。また、セガンの要請を受けて「白痴」の子どものための教育施設の設置を認可する手紙が出されておりますが、そこには1840年1月3日現在でセガンが6 rue Pigale(ピガール通り6)に居住していることが示されています。その他には、1843年にはパリ郊外の男子養老院(ビセートル救済院)で賄いつきの住み込みを命じられております。また、1847年に35 rue du Rocher(ロシェ通り35)に住んでいたことが分かっています。
 私はこれらの居住地住所を訪ね歩きました。現在のパリに残っている地名(通り名)ばかりです。しかし、現在のパリとセガンがパリにいた時代とでは大きく様相を変えております。ナポレオンIIIの時代、すなわち第2帝政時代にオスマンというセーヌ県知事によって近代都市パリへの大改造がなされました。ですから、地名が残っているからといってそれがそのままセガンの時代の姿を残している可能性のほうが少ないわけです。
 この、いわば時代の落差との出会いの話は、それはそれで面白いエピソードがありますが、時間も過ぎてしまいましたので割愛させていただき、話を閉じさせていただくことにいたします。ありがとうございました。