素敵なオピニオンが届いた

 「道徳教育の研究A」の授業は先週で終了。従って「オピニオン集」の発行はないのだが、ぼくの「感想を是非送って下さい」との呼びかけに応えた「オピニオン」がけっこう届く。今日のうちから一通を。・・・・
「この授業で何を学んだか、と考えると、自分の考えを表現することの重要さです。(大学生にもなって幼稚でお恥ずかしいですが…。)
他者の意見から「いろいろなものの見方や考え方」を学ぶには、まず自分の意見を表現しなければ、出発点につく事すらできません。
しかし今までの私は、自分の意見を表現しているつもりで、本当は自分の意見を表現していなかったと思います。本音を他者にさらけ出すことが、怖かったのです。本音を言って、仲間はずれにされたり相手にされなくなったら、それからの生活が嫌になります。それならば自分の本音など自分の中だけにしまっておいて、周りの意見に「そうだね、私もそう思う、私はこう思ってたけどそう考える方がいいね〜」と、引いた方がラクだったのです。今もそうやって対処してしまう時が、恥ずかしながらまだまだあります。
しかし、教師になろうとしているものが、そんな事ではいけません。生徒の心に寄り添い、共感し、耳を傾け、受け入れるには、本音の関係が重要であると、この授業で学びました。
本音で語るのは怖いです。今も、川口先生にどう思われているのか怖い気持ちがあるのが私の本音です。しかし、こちらが本音でなければ生徒の心には寄り添えないし、なにより自分が見えません。
本音なのか、嘘なのか、見分けることはとても難しいことだと思います。だから、まず自分が本音で掛け合って行く、この姿勢が事の始まりだ!と思いました。
川口先生にオピニオンを送ると、必ず返信を下さいました。川口先生からの返信メールと、自分の送信メールは全て保存してあります。読み返してみると、私がどんな事を送っていても先生はきちんと私の考えに真摯に寄り添って、コメントを返して下さいます。私が言葉選びを間違えてしまった時には、きちんと訂正して下さいました。その時は、「先生に送るオピニオンなのに間違えてしまった!」と後悔し、例の怖さが浮かび上がってきましたが、先生はその後もメールのやりとりを続けて下さり、これが寄り添うということなのかな?と体感しました。間違えを正すのは教師として当たり前の事かもしれませんが、間違えを無視しないで、解決への道を開いて下さったことで、間違えてもいいんだと思えるようになりました。
本音で語る場をつくるにあたって、このように間違えてもいい、誰かが寄り添っていてくれる、という状況はとても大切です。間違えを恐れる子どもたちに、安心と信頼をかんじてもらえるような場を作ってから、「本音」の場は出来上がります。
そうすれば、他者の考えから自らの成長を促し、さまざまなものの見方を本当の意味で学ぶことができます。
もちろんこれを実践するとなると、とても難しいことだと思います。しかし、この実践方法を頭でわかっているのと、わかっていないのでは雲泥の差だと思うのです。
また、このオピニオンメールからは、自分の意見を聞いてもらえる事の安心感もありました。表現するだけでなく、それを「聞く」力もコミュニケーションの中で大切であると考えさせられました。
川口先生の半期の「道徳教育の研究」から学び取ったことは、人としてどう生きるか、ということだったように思います。教職の授業の枠にはおさまらない程、大きなものでした。
明後日はテストですが、自分なりに精一杯がんばってみようと思います。半期の授業、本当にありがとうございました。」