『育療』54号寄稿論文に関する有りがたい書簡をいただく

 ぼくの『セガン研究』を見守ってくださってきている神奈川のK先生から、有りがたいお手紙をいただいた。お断りもせず、次に引用させていただく。
「「育療」誌が届き、「知的障害教育の開拓者セガン案内〜先人の偉業を検証するための一助として〜」を読みました。この論考は、今後セガン研究を行う者が最初に読むべき論文であるように思いました。もちろん先に出版された「知的障害教育の開拓者セガン」もそうですが、「〜案内」の表題が示すように、セガンの「案内」としてはこの論文が分かりやすく、また重要な指摘があるように思いました。セガン略伝は、セガ研究史となっており、どのようにセガンが研究されてきたか、そしてその歴史の中の誤認が根拠とともに示されています(読んで「痛快」です)。
「1856年論文」は、短いながらセガン自身の実践史とともに、精神医学の歴史やスペインの修道士における治療的な活動まで書かれています。セガンのキリスト教の信仰・教養、医学や社会的な認識の高さに驚きます。自分の業績をアピールするのも上手であって、文章の書き手としても能力があった方のように思えました。
セガンがビクトールの処遇を誤認していた、との脚注がありました。イタールとセガンは短い期間であっても、たいへん濃厚な会話をしていたわけですから、その中でビクトールについてもその教育や効果や限界等を話し、その後についても語っていたように想像します。この誤認は、謎であり、セガン、イタールがそれぞれ自身を語る時に生じる記憶と事実のずれという歴史の面白みでもあるように思いました。
 「話すことを教えるためには〜」の部分は言語療法、スペインの修道士による精神訓練は作業療法、驚きや好奇心を目覚めさせるとの部分は教育心理学、それぞれの重要な事項をすでにセガンが指摘していることをしりました。作業療法の専門家・他が「1856年論文」を読むと、それぞれの専門領域における先駆性、歴史的な意味に気づくことでしょう。
 「育療」誌にこのような貴重な論文を書いていただけたことを感謝いたします。ありがとうございます。
 「1856年論文」の「精神療法」がmoral treatmentであったとのことが説明されていました。同論文に「人間学」とあります。原著ではどのような言葉であったでしょうか。教えていただけると幸いです。(後略)」
 最後にあるご質問に対しては、「ところで、訳文中「人間学」の原綴についてのお訊ねについてです。the science of anthropologyがそれです。通常は「人類学」と訳出すべきでしょうし、私の草稿でもそうしておりましたが、最終的には「人間学」に落ち着かせました。セガンの立脚するところが、今日的な「人類学」と同一視することはできない、と考えてのことです。」とお答えした。
 いただいたお便りにあるのは、日本育療学会機関誌『育療』(2013年3月)掲載論文。次のアドレスにアップしてある。
http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~920061/ikuryou54.pdf
〇さる方のブログ日記に書き込みをしたところ、その読者のお一人が、ぼくの書き込みに対して強い不快感を持たれた。ブログ日記の作者とは、主観的な意味で親しくしている思いもあり、ジョーク、冷やかし、言葉遊びなどをときどきさせていただくのだが、考えてみると、作者がそのことをどう受け止めているかなど考えもしていなかったな。失礼があったとしたらお詫びするしかないけれど、その読者の「読み」の世界は、ぼくと作者との関係など斟酌せず、読者と作者との関係性の中でぼくの文章を非礼だと捉えたわけで、ぼくの方から直接、そのことに関してあれこれ書き込むことも見識を疑われることだろう。些細なことだけれど、ネット社会の「主観性」に直面した次第。ブログ日記は拝見してもコメントを書かないというのが一番いい方法なのかな。ぼくのブログに対してコメントがほぼ皆無であることが物語るように。それはそれでさみしいものがあるのだなぁ。