3月2日の『祝う会』での最終講義原稿

 終日、標題の作業。明日の打合会で時間配分などの詳細が分かるだろうから、その後添削作業となる。今日の日記は長いぞ―
「生活綴方から生活綴方へ
1.
 本日は、年度末という多忙期にも関わりませず、私の退職と、新著『19世紀フランスにおける教育のための戦い―セガン・パリコミューン』の出版とをお祝い下さるために、ご参集いただき、篤く御礼申し上げます。
 今日のこの会は、埼玉大学和歌山大学学習院大学教職課程でともに学び語りあった方々、教育・研究運動でご指導いただいた方々、そして私の研究に興味と関心を寄せていただいた方々との懇話会のような性格として位置づけていただきたいと、呼びかけ人の埼玉大学生活綴方ゼミ・長谷川栄さん、日本生活教育連盟の仲間・田村真広さん,そして拙著の編集を一手に引き受けて下さった幻戯書房、三好咲さんにもお願いした次第です。
 ところで、私の発題テーマを「生活綴方から生活綴方へ」と致しました。 やや私的な話も混じりますが、少しく時間をいただきますことをお許し願います。
 私が研究者として出発したのは戦前生活綴方教育運動を研究対象と定めたことにあります。その最初が、日本作文の会歴史分科会で報告させていただいた「上田庄三郎研究」です。本日ご参会いただいております志摩陽伍先生のご助言をいただき、研究生活へのモチベーションを強めることができたものです。志摩先生には、その後、研究の深まりの時、人生の迷いの時など、折々に厳しくて温かいご指導をいただいております。英語圏の生活綴方・Whole Languageの世界にお導き下さったのも志摩先生でした。40代の折、職場の配置替え、第4子との死別といった苦しみの中で人生をほぼ投げ出している状況にある私を暖かく包み込んで下さり、何とか生き延びることができました。もちろん、田村さんはじめ埼玉大学川口ゼミの仲間たちの励ましと援助という日常がなければ、私は絶望の淵を彷徨するしかないのでしたけれど。
 幸い和歌山大学が私の身柄を引き受けて下さり、新しい機関・新しい学科創設という重大な任務を帯びました。学生指導で生きがいを見いだしていたのが埼玉大学だとすれば、和歌山大学は働きがいのある職場という実感を得たのですが、その時に出会った学生諸君に大いに支えられました。その時のゼミのリーダー的存在であった山下勝也さんがこの場にお越し下さっています。彼が私に発したはじめての言葉「先生、ゼミ、何やりはるん?」を忘れることができません。その時に返した私の言葉「君たちがやりたいことをやればいい。」というのは、おそらくですが、「青年期の自立」の援助者でありたいという願いから出た言葉であったと思います。その願いは、埼玉大学のゼミナール活動によって芽吹き、方法的に実を結んだと思っています。「書きあい、読みあい、語りあい」という生活綴方的なやり方です。学問研究の対象としての戦前生活綴方から、青年期教育の方法としての生活綴方へと,進展していったのでした。とりわけ徹底した「語り合い」を実践した山下さんたちの学びの組織は発展的に継承されており、voiceという市民サークルとして現在なお開催されています。

 埼玉大学和歌山大学で計17年間過ごし、1992年4月から学習院大学教職課程に移りました。中高の教員養成で教職専門科目を担当します。学生は、授業や担当教員を選択する余地がほとんどないという状況です。ですから、教員免許取得にあたって、必須になっている教職専門科目のほとんどを私が開講する講義で埋めざるを得なかった、という気の毒な学生も少なくなかったようです。今日ご出席いただいているSさんはその代表のような方でした。Sさんは生粋の学習院子であり、典型的なバイリンガルでありますから、生育史学習史的には私などと接点がありようがない方なのですが、今ではお子様の養育・教育に関しても、ざっくばらんな相談を受ける関係であり、私の研究課題の対象である私立和光小学校にお子様を通わせておられます。こういう話は限りなく続くものですから、この辺で止めにします。
 学習院での私の授業の特徴をひとことで言いますと、やはり「生活綴方精神」で貫いてきている、ということになります。授業では体力と能力が許す限り「講義通信」を発行してきました。 ただし、授業終了時に「リアクションペーパー」を配り授業の理解度を測る、というあのやり方の延長にある「講義通信」ではありません。しかし学生諸君は少しでも成績を「有利」にするために、「川口の求める正解的考えはこれであろう」と推測して綴ってきます。お利口であり、かつ自己を偽るのに苦痛を覚えない利己主義者なのだな、といつも考えさせられます。彼らが紙片に綴ってきている「考え」が本当に彼らの信条に忠実であるならば、これほど恐ろしい画一的観念世界はありません。テキストブックを使用せず、板書もしない私のレクチャーで、彼らの混沌とした精神世界が画一的に整理されて、一つの価値世界が出来上がってしまうわけですから― しかしそれには、学生たちは私のことを邪推している、というオチが付いていると申し上げておきましょう。
 私は講義通信の編集・発行・授業でのテキスト化を通じて、彼らのこうした「観念」を壊し、新しい「概念」構築作業を進めるべく、授業を構想します。大人数講義ではありますが、何とか学習共同体であろうとするために、学生集団をグループに分け、グループ内ディスカッションを主体とした授業を導入しました。「先生の授業、友人との話し合いの中で自己が壊され、そして開かれ、新しく生まれ変わったように感じております。」と私にあててメッセージをくださったのは、「教職課程川口ゼミ」という名の自主ゼミの仲間・Tさんという、英語英米文化学科2年のお嬢さん。タイやフィリッピンに出かけ現地で学校づくりなどのボランティアに汗を流している非常に利発なお嬢さんです。今日のこの瞬間もタイで汗を流しておられることでしょう。
 「人は、基本的に言葉を通じて学習します。これまでの皆さんの学習史は、教科書と教師のその要約板書、中には教師のサービスとして教科書以外の資料提示もあったかもしれませんが、基本的には所与の書き言葉ですね,そしてそれを読む(音読を含む)ことで認識する。話す、聞く、という言語活動は書き言葉による学習の補完的な位置づけしかなかったのではないでしょうか。でも、学校以外での学習のための言葉は、その場で瞬時に紡がれる話す・聞くが主体です。」などという私からの投げかけで、グループディスカッションが中心的な学習活動として進められていきます。合い言葉は「隣の人は教材(学習材)」。学生たちのコメント集である講義通信を「活字テキスト」とし、ディスカッションを「隣の人は教材」として進めた私の大学の授業の基本は、まさに生活綴方であると思っています。
 それまで私の中で何か落ちないわだかまりのようなものがあったことが、ふっと解けて、ああこれぞ求めていた生活綴方的授業だと思うようになったのは、学生が授業に関わって寄せる「声」を、「コメント」から「オピニオン」へと呼び方を変え、実名表記であり、かつメールで送信するという方法を採り入れはじめた数年前のことでありました。学生からのメールには必ず私が返信する、いわゆる赤ペン返しをしております。
 一人の男子学生が私のところに来ました。「先生さ、オレって、マンガで生きようと思ってんだけど、それだと飯食えないよな、家族もみんな反対しているし。悩んでんだ。」と言います。私に背中を押して欲しいという気持ちがあったのでしょう。私はそれに直接は応えず、「授業の生徒指導の研究で、君のその悩み、語ってくれないか。君のその問題提起を含めて、人生史シンポジウムをやらないか。」と提案しました。彼はそれに強い同意を示し、シンポジウムならぬ、司会を置いて彼と私との「人生史対談」を授業内で取り組みました。この試みからは、いじめられた経験、クラブ・サークルでの人間関係の苦しみ、暖かい家族の愛に包まれた生活、教師に育まれた心の底からの喜びなど、多様な「人間」像が綴られました。
 なかでも印象深いのは、M君という理学部数学科3年の全盲の学生の語りが教室に深く染みていったことです。彼は失盲に到るプロセスを語る文脈の中で、「オレは楽天的に生きているけれどただ一つ悲しいことがある。それは、オレのことを分かってくれていると思っていたオヤジがオレの写真を見て、目が見えればいい男なんだけどなあ、と言った時だ。オヤジは今のオレのありのままを認めてくれていないんだと思った時ほど悲しい思いをしたことがない。」、教室の多くの若者たちが親との関係のあり方を手探りでいる、悩んでいるわけですから、共感の大きな拍手が教室に響きました。また、例の3・11の大災害による被害で家族が地域がバラバラになってしまったことを綴った文学部史学科3年のM君は、「ぼくは故郷を創ることがこれからの人生だ」と語ってくれた時も、共感と応援の大きな拍手が起こりました、などなど。ふと、これらの学生の姿が、埼玉大学勤務時代の初期に出会った埼玉の駒崎健一先生、中期に出会った北海道の笠原紀久恵先生、末期に出会った青森の今は亡き津田八洲男先生などの生活綴方教室の子どもたちの姿と、二重写しに見えました。
 史学科のM君は、翌年の授業「道徳教育の研究」での創作演劇の取り組みで、大津波に襲われた瞬間、地域消防団青年が救助活動に必死になるも強制退避命令のため、目の前の被災者に手をさしのべることができない悔しさを、大波が押し寄せる擬音効果を演出して、グループの仲間と演じました。拍手が鳴り止まないという表現が大げさではないことを知った時です。この時の擬音効果音を担当した男子学生が、次の年の生徒指導の研究―模擬職員会議の演習―で中心的な役割を果たしてくれています。
 実名明記のオピニオン集を主体テキストとし、それを元にしたディスカッションをサブテキストとした私の講義スタイルについて、理学部物理学科3年のI君は、「私は、身近な「他者」とディスカッションすることの意味を考えるようになった。「教科書」には、おそらく、「正しい答え」が書いてあるだろう。しかし、我々の問題には答えのないものが多い。・・一体それをどう考えるのか?それには、他者と語ることしかないのではないだろうか。」とオピニオンに綴っています。そして今年度、「オピニオンを聴くことは自分も相手も成長することが分かった」と綴ってくれた文学部英米文化学科2年のKさん、「皆の声を聞くこと、自分の声を皆に届けること、この二つの大切さ尊さを学びました」という先に紹介したTさん。Tさんは「最後には何と、300人もの前で声に出して自分のオピニオンを読み上げることができました。」と自身が拓かれた姿を綴っています。途中で涙で声が詰まってしまいました。この涙は、授業の中で味わった「自分壊し」と「自分づくり」の矛盾・葛藤に苦しみ、そして喜びを味わった青年の心の底から湧いてくる涙だったのでしょう。
 教職課程川口ゼミという自主ゼミは、私が学習院大学に着任以来、人を変え、テーマを変えて、今日まで続けられてきています。ただただ語り合いを進めただけの初期のゼミ、私の方からテーマと素材を提供しはしたけれどやはり語り合いが中心であった中期、そして大変忙しい思いをした近年。火曜日・ジェンダー問題を考えたいという女子院生たちと進めた『エミール第5巻』読書会(女性論ゼミ)、水曜日・断続して継承されてきた「教職課程川口ゼミ」、木曜日・文学部哲学科の院生・学部生たちとの「男子会」という談話会―これには学習院女子大学のお嬢さん2人が加わりたいと強く申し出てきたので、窮余の策で「男子会女子部」という組織を作りました―、そして金曜日、前述の全盲のM君そして支援者の大学院生S君、学部生のMさん、やがて、パラリンピック水泳選手でメダリストのK君、時には、その頃教育学科開設準備中であった関係からアルバイトをお願いしていた,今日ご参会いただいているNさんにも加わっていただき、ざっくばらんに障害を語る会を持ちました。多様な人生史を背負った学生たちと親密に語り合うことは、忙しくて本を読む時間を取るのが大変ではありましたが、私の生活綴方的青年期論を豊かにしてくれたように思います。
 昨年度の水曜自主ゼミは、文学部史学科N君、学習院女子大学Sさんらが中心になって運営され、今年につながれてきました。ゼミとして統一テーマは持たないけれど、参加者が各自の問題関心とするところをレポート報告をし、議論をする、というスタイルとして確立されました。時として報告内容に苛立ち、あれこれと強く口出しをする私の関わり方を見てでしょう、Sさんは、「このゼミを私たちのゼミにして下さい」と申し出て、運営の中心を担ってくれました。気の急く私の強引な指導から相互学習に委ねるゼミのあり方へとコントロールをし、ゼミという学習共同体を自立させていく力を提供してくれました。この自主ゼミも、新しい担い手たちによって、継承されていくことになりました。
 「生活綴方とは何か」などということは永遠の実践的研究的運動的テーマでありますので、一言で語ることはできません。ただ、私が求めてきたのは「自身の本当の姿をつかみ取る」ことであろうと言えます。そういう意味での「リアリズム」教育実践を求めた大学人生活39年間でありましたし、さらにはその方法としての「リアリズム」とは何かを求めた「生活綴方研究者・川口幸宏」でありました。
3.(ここから研究についての語りになる。)
<2.の終了と同時に効果音(中村:鉄砲連発)
   スライド1  ペール・ラシェーズの戦闘の場面(パリ・コミューン終焉)
(語り) 1871年5月28日、「血の一週間」と呼ばれる凄惨を極めたヴェルサイユ政府軍によるパリ・コミューン制圧の最終舞台がペール・ラシェーズ墓地であった。政府軍に追われた非武装民衆も含めここに逃げ込み、たくさんの人々が射殺され、捕らえられた。そして、捕らえられた人々は裁判にかけられることなく― (スライド2へ)
  スライド2 <中村:銃声が絶え間なく鳴り続ける>
(語り)ペール・ラッシェーズ北壁で大量銃殺刑が行われた。現在この場には「連盟兵の記念碑」が掲げられ、毎年この虐殺があった日の前後、あるいは、秋のハロー・ウィーンの時期に弔問に世界からたくさんの人々が訪れる。
スライド3 <銃声を止めてスライド3にシーンが移る>
(角谷)フランス語原詩A朗読  朗読後「A:小さなコミュナル」と言う。
(空子)子どもは15歳、壕の中にいた。
(空子)不意をつかれて、軍の手におちた。
(空子)バリケードの近くにいたヴェルサイユ軍の将校が、
(空子)子どもを呼び寄せ、こう聞いた、
(悠平)「坊主、そこで何してた?」
(空子)子どもは叫んだ、
(白川)「ぼくはパリ・コミューンの兵士だ。
(白川)それでおまえらに背くというのなら、けっこうだ、ぼくを撃ち殺せ!
(白川)人を殺すなんて、おまえらには、あたりまえすぎることなのさ、
(白川)気兼ねせず、迷いもしないでおやりになることなんざ。」
(空子)将校は少年の死を決め、壁へと移動させた。
(空子)子どもはことばを続けた、
(白川)「ねぇ、ここにあるぼくの時計を、
(白川)すぐ前の、家にいる、お母さんに、
(白川)渡してきたいんだ。ほんのちょっと。行って帰ってくる。」
(空子)そして少年は兵士の手を振り切り、
(空子)2分後には、少しも動揺を見せず、
(空子)姿を見せた、決然と、自分から。
(空子)少年は約束を守り死を望んだのだ。
(空子)元の壁の前へ、将校は彼を連れて行かせた。
(空子)兵士たちが発砲した。 (ピストル音連続的に数発)   
(空子)少しもたじろぐことなく、
(空子)少年は、暗黒の運命に身を任せ、
(空子)崩れた、両の目は悪魔の将校をキッと見据えながら。
(間)
(角谷)フランス語原詩B(前半)朗読 朗読後「B:「恐ろしき年々」より前半」という。
(空子)流れた罪深い血と清らかな血で染まる
(空子)石畳の真ん中の、バリケードで、
(空子)12歳の子どもが仲間と一緒に捕らえられた。
(悠平)おまえはあいつらの仲間か?
(空子)子どもは答える、
(白川)ぼくたちは一緒だ。
(空子)将校は言う、
(悠平)よろしい、ではおまえは銃殺だ、
(悠平)順番を待っておれ。  (中村 ピストル4発)
(空子)子どもは幾筋もの閃光を見、 
(空子)やがて彼の仲間たちはすべて城壁の下に屍となった。
(空子)子どもは将校に願い出た、
(白川)ぼくを行かせてください、
(白川)この時計を家にいるお母さんに返してくるから。
(悠平)逃げるのか?
(白川)必ず戻ってくるよ。
(悠平)このチンピラ
(悠平)恐いのだろ!何処に住んでるんだ?
(白川)そこだよ、水くみ場の近くだよ。
(白川)だからぼくは戻ってきます、指揮官殿。
(悠平)行ってこい、いたずら小僧!
(空子)子どもは立ち去った。
(悠平)見え透いた罠にはめられたわ!
(空子)それで兵士たちは将校と一緒になって笑った、
(空子)瀕死の者も苦しい息のもとで笑いに加わった。
(空子)が、笑いは止んだ。思いもかけず、青ざめた少年が
(空子)ぶっきらぼうに戻って来、ヴィアラのように堂々と、
(空子)壁を背にして、人々に言った、
(白川)ただいま。
(間)
角谷:原詩B(後半)を読む。 
(間)
全員:愚かな死は不名誉である、それで将校は放免した。>
(講演の続きに入る)
 「朗読劇」というのでしょうか。パリ・コミューン史で必ずと言っていいほど用いられるシーンを、二つの詩編でご紹介しました。会話の部分は、少年役を白川さんに、敵軍将校役を理学部生命化学科1年の佐藤君にお願いしました。いずれも自主ゼミの仲間です。地の部分は和光の保護者の佐藤さん、そして原作朗読を文学部哲学科で教育学研究,なかんずく大正期教育研究を志している角谷君、4月からは大学院に進学が決まっています。なお、効果音のピストル操作は10年ほどネットを賑わし続けてきたトド鶴コンビの片割れトドちゃんこと中村さんにお願いしました。またPP操作を姫さまこと三好さんにお願いしました。お二人とも私のセガン研究、パリ・コミューン研究の裏ストーリーを知り抜いておられます。
 さて、朗読劇のネタは、お手元にお届けしました拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い』244ページから248ページに紹介ならびに評価をしておきましたので、ご覧いただければと思います。そこに示しましたように、朗読劇の2つの詩は、パリ・コミューンの最終段階でのある逸話を,かのヴィクトル・ユゴーが『恐ろしき年』という詩編の「6月」の見出しで綴っている「XI」の小節で謳っており、彼の子ども観、すなわち、子どもは勇敢でありかつ母親を慕う無辜な存在者であり、その両面が時として行動に表れる矛盾した存在者である、それこそ本当の子ども、だから子どもには罪はない、子どもを愛そうという立場であり続けます。
 このようなユゴーは「子どもの権利条約」の原点を築いた人として高く評価すべきなのですが、時として、彼の言説を、観念論だと断じ、またある時は彼の詩編の一部を切り取って、あたかもその後の機械論的な階級闘争の大いなる味方であると断じたり、など、されてきております。私は、そういったユゴー評価に与することができません。それが私の「生活綴方」研究者として保つべき矜持だと信じております。
 もちろん私は、非常に浅い研究的理解しかできない能力の持ち主であることは十分に承知しておりますけれども、歴史を語る時には、その時代の原史料に即して語るべきだと、強く自らに言い聞かせてきました。教育学研究者として教育史的現象を素材にした研究を進める決意をした時から今日に到るまで、持ち続けております。それは、生活綴方を語る時に、子どもの綴り方をありのままに読む、子どもを丸ごと捉えて語らなければならない、という教育的良心を不器用にも携えて今日まで歩んできたその道から得た「リアリズム」精神に由来しております。私が自らに禁句としてきたことは、○○がそう言っているからそうなのだ、という価値評価です。たとえ○○がマルクスであったとしても、です,ましてやセガンをや。
 今回出版致しました『19世紀フランスにおける教育のための戦い』はこのような視点から綴っております。行間を埋めきれない論展開の甘さが多々ありますが、それ自体が私の研究的力量の大きな弱点となっています。しかし、その甘さを人様の論説の上に立ったり、史料的確認さえすること無しに天下り的な結論を提出するということだけはしていないのが、私の「リアリズム」の依って立つ誇りだと思っております。
 「生活綴方」とは何と不器用なのでしょう。その不器用さを携え続けた研究・教育生活にご同伴いただいた皆様方に、篤く御礼を申しあげ、つたない話の結びとさせていただきます。