自主ゼミ、障害児教育

 昨日の自主ゼミは、なぜ障害児教育に携わりたいと考えているのか、というテーマでOさんが報告。「特殊教育」から「特別支援教育」へと名称が変更されたことの意味、身体障害、知的障害、精神障害がこれまでの障害の区分であったのに対し、発達障害が昨今取り上げられて来ていることなどの説明がされ、我が教職課程では、講義内容として、障害児教育についてはまったく触れることがないので、なかなかのガイド振りで楽しく学習することができた。
 Oさんは、生育環境の中に、障害者との関わり・コミュニケーションが自然とあったことが、今日の自分の生き方に大きくかかわっていると言う。ぼくなどは、障害者との関わり・コミュニケーションがあったが故に、そしてそれが極めて排他的になされていたが故にだろう、障害者問題を正面から取り扱うことに対して、随分と長い間、「勇気がいる」と思い込んでいた。つまり、Oさんにとっての障害者問題は普通のこと、ぼくにとっての障害者問題は特別なこと。そういう意味でもOさんから学ばなければならないことが、たくさんあるように感じた自主ゼミ参加であった。
 それにしても「障害者」との表記は認められなくなってきている。「障がい者」。「障害者」という表記には、<しょうがいしゃ>は<害>があるとの誤解、誤認を生む、嫌悪感がある、との理由付けがされている。ぼくはこうした理由付けこそが、もともと「障害」にはそのような意味はないことを曲解し、「しょうがいしゃ」差別を強めている。「障」も「害」も「差しさわりがある不都合なこと」の意味。「障害」とは、「しょうがいしゃがさしさわりがあり不都合」なのではなく、「しょうがいしゃにとって差しさわりがあり不都合」なのだ。そして、「しょうがいしゃ」にとって差しさわりがなく都合が良くなる社会は快適な社会なのである。
 言葉狩りをすればするほど差別が拡散、拡大されていく。