匿名であること、実名であること

 「生徒指導の研究」の授業も残すところあと数回。毎回授業終了後に「出席表」を配布し提出を義務付けています。自由意志で「感想」が綴られています。それを毎回、全員の声を「新聞」に掲載し、次の授業の際の「前回の復習」と「今時の課題」の資料として使用しています。時には複数の「感想」を採りあげ5人程度のグループで行なうディスカッション資料とします。掲載に当たって氏名は匿名(番号)にしてきました。そろそろ実名掲載をと訴えたのですが、10名に満たないものしか実名掲載を認めませんでした。
 今日は、「匿名」であることと「実名」であることの意味を考える授業をとり組みました。「匿名でいて個性を認めろ、と言われても、教師は困りますね。」という呟きを混ぜながら、蒔田晋治「教室はまちがえるところだ」を配布、グループで声出し読み合わせをしました。にぎやかな教室でした。
 授業終了後出された「出席票」に、次のような声が綴られていました。
「今日は朗読によって、言葉には一人ひとりのリズムがあり、一文にも、一人ひとりの理解、解釈があり、それが個性なんだと思った。正解は存在しない。いや、むしろすべてが正解と言った方が当てはまるだろう。
 神奈川県神田高等学校では入試において、テストがよくても、態度、服装、イメージが悪かったら、合格基準点に達していても落ちる可能性がある。これはおかしい。みんな今まで、生きてきた環境も違ったろうし、考え方も違うだろうし、個性をまったく無視していることになる。
 固定観念にとらわれていては、今後、日本の子どもたちは本当にしっかり育つのであろうか。教育者が、子どもの未来を直接的ではないかもしれないが、間接的に抑制しているように思われる。
 子どもが変えていくこともたくさんあると思うが、それ以上に教育者が考え、学ぶ必要があると思った。」
「今回の授業で始めてプリントに実名が掲載された。『名前で個性の発揮だなんて・・・』と疑っていたが、実名付きの感想を読んだとたん、ゾクゾクした(これホント)。この人はどんな人なのだろう?○○さんての方なのだろう?と相手を知りたいという想いが、活字に『生』を吹き込んだかのようだった。」