研究課題を整備

 家族は出かけ、猫とお留守番。甘えん坊のハナがぼくの仕事のそばをうろうろ、ほかは、温かい部屋で団子になって昼寝中。
 朝から、2006年以降につかんできた研究の「柱」の整理。そもそもぼくの研究のはじめはどういうことだったのか。面白い記録を見出す、しかし事実。多少手を入れて、以下に紹介。長いです。
 

 生活綴方史においても、日本の近代学校におけるカリキュラム史においても、滑川道夫は見逃すことが出来ない存在。とくに、制度知の枠組みを超え、社会知を学校教育に実践的に組み込んだ役割は大きなものがある。その滑川道夫との「出会い」からー。
 
 上田庄三郎を研究し始めた頃、じつを言うと、生活綴方とは何か、さっぱり分かっていなかった。教育史の概説書で読んでいた程度でしかなかったから。その教育史はもっぱら北方性教育運動に焦点を当て、引用されている論文や作品は、困窮にあえぐ東北地方の教師と子どもの嘆きばかり。確かに、生活綴方は「貧乏綴り方」と長く言われ続け、困窮を暴露し、現実社会の矛盾に目を向けさせるものだった、とも言われていた(例えば、「生活綴方を研究している」と言った時に返ってくるのが、必ず「ああ、貧乏綴り方ね。赤い綴り方」というもの)。1930年代の我が日本の社会矛盾は確かに激しく、農奴制を残している地域も少なくなく、農民の大多数が小作だから、階級的な矛盾から来る諸問題は教育界、とりわけ初等教育現場にしわ寄せが行っていた。たとえば、地主の子どもの子守りのため小作の子ども(低学年)が学校を休む、地主の畑作りのため小作一家が総出で働き、それが一段落付いたら借りた田畑の作業をする、そのため10歳ぐらいになると子どもは学校を休んで農作業に携わる、など。こうした矛盾はいわば暗黙の了解の基に(後注)「隠されて」いたが、大正期半ば以降の新教育によって育てられた「生活重視」の教育風潮が広がり、「生活」観に広がりと深まりが進んで行く中で、子どもたちがそれらの矛盾を詩や作文で綴り始めた(もちろん、教師の意図的な指導のもと)。当時のぼくは、マルクス主義に本格的に触れ始め、大学紛争を経験したこともあり、社会矛盾に目をあてる、それは認識の変革に繋がり、やがて自らが変革主体に育つ、と信じていたから(楽天的だがやー、ホンマ。社会矛盾に目をあてても、そう簡単には変革しなきゃ、などという意識と行動がつくられるはずもない)、教育史書で描かれるこうした「貧乏綴り方」・「矛盾暴露の綴り方」を主体とした「生活綴方」を進歩的で、革新的で、社会変革を展望したものだ、と理解していた。この程度の理解だったわけ。もちろん、生活綴方に関する史資料は、まだほとんど手許になかった。

(下線部注)「暗黙の了解」とは適切な表現ではないかも知れない。端的に言えば、日本近代教育における制度知の骨格を為した「教育勅語」に見られる儒教倫理のこと。「教育勅語」は徹底して暗誦させられ、一言一句の間違いも許されなかった。「勅語」は学校だけのものだと勘違いしやすいが、江戸時代中期にあらゆる機会を通じて庶民に徹底された朱子学(封建的身分制的秩序イデオロギーの代表)を中核として採り入れているので、日本社会一般の「通念」と「行動様式」となっていたし、「勅語」によって幼年期からそれを教え込むことで、天皇ヒエラルキーを確実なものにしようとしたわけだから、地主が小作を収奪するのは「当たり前」(逆に小作は地主に感謝しなければならない)、親が子どもを「虐待」して「当たり前」(逆に子どもが親に感謝し、孝養を尽くさなければならない)等々の「習慣」が定着していた。しかし、その「習慣」はあくまでも立前であって、「嘆き」や「辛さ」や「苦しみ」や「喜び」、「楽しみ」などという「内的感情」は捨てていなかったのが人々。「陰でものを言う」のがそれ。しかし、それを人に知られると不利益を被るので、用心に用心を重ねていたことは、「秋深し隣は何をする人ぞ」「物言えば唇寒し秋の風」の芭蕉の俳句にもテーマになっている。秋田の木村文助の「涙」の作品は、「立前」に縛られながらも「内的感情」を押さえがたい少女の苦悩が描かれている。指導者文助はその「内的感情」を否定せず、やがて「分かり合う」時を期待している。あくまでも少女の主体における問題解決を願っている。これは明らかに「勅語」への方法的批判となる。制度知を定着させる任務を持っている教師がその定着を徹底させていないことは、重要な意味を持つだろう。しかも、これを学級で読み合っている!
 小砂丘忠義の「ジョン・デューと優等生」では儒教倫理の問題ではなく、制度知の徹底伝達任務を負った教師の言うこと(即ち、制度知)に従うことに批判の目をあて、民衆の間で伝えられてきた遊び(社会知)の人格発達の意義を述べている。文助や小砂丘の実践は、いわゆる初期生活綴方と呼ばれるもので、「階級的矛盾の表現にまで行きついていない観念論」と教育史通説では扱われてきていたが、ぼくは修士論文他で、その通説に異議申し立てをした。
 それに行きつくまでにずいぶんと紆余曲折があったが、滑川道夫との出会いがかなりぼくに強い影響を与えている。
 

 「滑川先生にご挨拶に伺いなさい」 ゼミの指導教授倉澤栄吉先生からそう言われたのは修士1年2月の指導会の数日あと。当時、滑川先生は、東京教育大学文学部の講師で児童文学論を講じておられた。それと同時に、教育学部でも国語教育論を担当しておられた。講師という身分は大学院指導が出来ないので、ぼくは授業を取っていない。時々、倉澤研究室に顔を出しておられ、その名声を聞き及んでいたので、「ご挨拶に行け」という倉澤先生の「ご命令」に極めて緊張を覚えたものである。

 吉祥寺の滑川邸訪問は衝撃的だった。
 「チミが川口君か。倉澤さんから聞いているよ。チミ、共産党に近づかない方がいいよ。」これが第一声。「はあ・・・」。次にいきなり話題を代え、「共産党系の教育学者の書く教育史は、史資料選択に恣意性が見られると思うけど、チミ、どう考える?」。「はあ・・・」。「上庄(上田庄三郎)を研究するんだってね。ぼくのポン友だ。知りたいことがあったら聞きたまえ。もちろん、長男の耕一郎君は好人物だ。共産党の大物だけど、彼からはイロイロと話を聞くことを勧める。紹介状を書いてあげよう。」「はあ・・・」。とてつもなく高名な人の前でぼくのこれまでの世界とは無縁の話の登場に目を白黒させ、絶句しているぼく。奥様が、傍で優しく、「あなた、いきなりそれじゃ、川口さんがかわいそうよ。ね、川口さん。」とお茶を入れて下さったのは大きな救い。
 ちょっとついてきなさい、とおっしゃる先生の後に従っていくと、地下に大きな書庫が。雑誌から単行本から、もう何万冊も・・・。「チミね、これ、滑川文庫、って呼ばれているんだけど、ぼくが秋田で小学校教師をしていた時から集めてきたの。教師を務めるには何よりも社会の知性について知り尽くさないと、子どもに申し訳ないからね。ここにね、戦前の、生活綴り方関係の雑誌や本があるから、今度から、ここに来て勉強しなさい。しかし、ここにあるのがすべてじゃないよ、まだまだいっぱいある。国立国会図書館に行って戦前生活綴り方関係の文献目録を作ってくれないか。」「ありがとうございます。ご指導をお願いいたします。」「チミ、ぼくが北方教育の生みの親の一人だって、知ってるかい?」「申し訳ありません。存じませんでした。」「まあ、これから知ればいい。でね、雑誌『北方教育』創刊や成田忠久という豆腐屋の親父に綴り方や教育の研究のための会場を借りる交渉をしたの。/上庄はぼくらの理解者でもあり、問題提起者だったね。彼を、息子が共産党の大物幹部だから、という目で見る人は彼の教育論の本質が見えていない。」(注:たしかに、ぼくが上庄を研究することを知った研究者の多くは「息子が偉いだけで、親父なんか、何の価値もない。価値があるとしたら、偉い息子を作ったということだ」と、ひややかな対応をした。)
 滑川先生の出会いの第一歩は、「事実を見よ、確かな事実を見よ、上着で人を判断するな。」ということを強烈に教わったわけである。そして「事実の見方」について、具体的に場と機会を提供して下さったわけだ。滑川文庫通いと国立国会図書館通いとが、文献研究のノウ・ハウを教えてくれた。確かに、先生の言うとおり、やがて、教育史書は、生活綴り方を、文献・史資料実証的に論じておらず、論理解釈に力を注いでいる、ということが分かってきた。
 
 その滑川先生から、先生のご意志を継いで戦前生活綴方史を完成させてほしい、とご遺言いただいたのは15年前。世界の現実に、世界の歴史に、戦前生活綴方の同質の教育実践や教育思想を求めて今日まで歩いてきた。もう少しこの「寄り道」をさせていただく。「健常者」にのみ有効であった「近代教育」を批判し、その腐臭の本質を明らかにし、代替する教育観の具体像を構築する教育学研究の到達こそが、滑川先生からいただいた研究課題の実現なのだから。

 
関係エッセイは「川口幸宏資料館(http://d.hatena.ne.jp/kawaguchi-yukihiro/)」にアップ開始
 

 追悼
 昨年11月、上田庄三郎長男上田耕一郎氏ー元日本共産党副委員長ーご逝去。思い出深いのは、上田庄三郎生誕100年祭が高知土佐清水で催されたときご一緒させていただいた。式典参加、上庄ゆかりの「お宮」「生家」など教え子たちとの訪問、事後は土佐清水から高知市まで車でご同道させていただいた。この時が耕一郎氏と直接顔を合わせ会話させていただいた最後である。多くの証言と史料貸与とをしていただいた。ぼくにとって最高の研究の道案内人であった。 合掌