世の中ワープロ依存症候群 ー ぼくはタイピング依存症だけど

 ぼくは教育界における「近代化」「現代化」に嫌悪感を持ってきて生きてきた。「手作り」派であった。しかし、かつての職場で、願いもしない職場への配置換えを受けてから、ぼくは一気に「手作り」派であることをやめざるを得なかった。
 毎日職場に向かうのは、キーボードに向かってただひたすらタイピングをし、簡単ではあるがプログラムを書くことだ。あるいは、自宅のビデオさえ操作できないのに、LANなどを構築する、簡単だけど。こんな生活を送るようになってから、字が書けなくなった。職場換えにそれまでの社交界が戸惑ったのか、それまで毎月のように雑誌原稿の依頼などが来ていたのがピタッとなくなったことも、字が書けなくなった原因だろう。
 それから優に20年は経っているから、鉛筆やボールペンや万年筆、毛筆で紙類に「書く」ことはほとんどない。にもかかわらず、ぼくは、郵便物の宛名は必ず手書きにしている。せめて、そこがぼくのぼくらしいこだわりにしておきたいと思っている。書き損じはするが、差し出す宛名を間違えることは、まずない。頭の中に仕舞いこんでいる名前はそう数多くないし、また、データ入力して保存して必要に応じて引き出すというようなPC活用しなければならないほど、お付き合いもない。いただいた名刺やはがきなど「実物」を目にして宛名書きをする。
 昨日、学生の誤字のことを書いた。書いてから、今年いただいた年賀状等の、ぼくの名前の間違いが一昨年までと比べ物にならないほどに、多くなっていることを思い出した。間違いの郵便物はすべてが印字されたものである。その一方で手書きには間違いがない。ぼくが年賀状をいただくのはすべて大人ばかり、なのにである。・・・
 閑話休題:年賀状を出したいので住所を教えろと学生に訊ねられることは毎年あるが、ぼくはすべて、「返事出したくないからいりません」と、断っている。嫌な言い方だよねー、きっと。こういう言い方をすれば重ねて問うということをしないから、なかなか便利な方法なんだな。
 ・・・その大人が、ちょっと便利なツールを手に入れて、今風にやってみた。どうだい、なかなかきれいに仕上がったろう。そんな声が聞こえてくる。しかし、手紙を出す相手の名前を間違えるってこと、恥ずかしくないのだろうか。入力したときに誤入力や誤変換がないかどうかを、確かめないのだろうか。このブログは公開しているとはいうものの自分のためのものだから誤変換があろうがなかろうが、そう責められる必要はない。しかし、郵便物の宛名に誤りがある、しかもそれが一過性でなく、永久保存され、毎回毎回引き出され、相手に届けられる。
 何度、返信したことだろうー
「私の姓名の名のほうが間違っておりますので、住所録に保存されておりますでしょうデータのご訂正をお願いいたします。」
 世の中が間違っている云々というご立派な裏面を毎年毎年綴っておられるお方たちが、毎年毎年表書きを間違っている(間違っているという意識など毛頭ない、訂正要求があっても、おそらく知らん振り。あ、「世の中」と同じだ!)。
 学会の会長、何とか団体の委員長、教育機関のお偉い人云々。中には、ぼくの教え子や同級生なども間違っている。現在の肩書きはいずれもなかなかご立派である。そして、PCに関してはまことにそろって新参者のようだ。
 差別用語で「○○に▽」というのがあるが、まさにそれを当てはめて差し上げたい。彼らは、軟い学生と違って、成長発達修正可能性などないから。
 真剣に、ワープロ学力の問題を考えてみたい。

 ・・・といいつつ、誤変換無意識丸写レポートを、腹を立てながら、今日も読む。