ジャマイカ・レポート(再)

 ジャマイカは日本の秋田県ほどの面積の国土を持つ人口250万の小国。約80%がアフロ・ジャマイカンすなわちアフリカ系黒人が国民の大半を占めている。2002年が独立40周年。国土のほとんどが2000メートル級の山地で覆われ、四方に開かれた海岸はそのほとんどが外資系リゾート地帯。まるで我が国の山並みを見るようなブルー・マウンテンは、それらの一部の地帯が最高級のコーヒーの産地としても知られる。ジャマイカの人びとにとっての主たる内陸部産業は、山の麓の南国果実の栽培林、広がる平野地帯の麻(麻薬・覚醒剤になる大麻の原材料)やサトウキビ(ジャマイカラム酒の原材料となる)の栽培ぐらいであろうか。全般的に貧困な姿を見せていた人々の行動性は伸びやかであり、逆に言えば、活気が失せている人々の生活ぶりということである。その一方でヨーロッパ風の瀟洒な豪邸が丘陵地帯に広がる。海岸沿いの高級リゾート地と丘陵地帯の高級住宅地に挟まれた都市部はトタン屋根で覆われた民家が続く。スラム地帯でなくてもそうである。貧富の差が大きいことは一目で分かる。独立国家となって以降もイギリス連邦を構成する一員であり、すべてはイギリスのシステムで動いている、と言われている。
 コロンブスが15世紀の終わりに「インド」と間違えて上陸したこの国は、その後スペインによって原住民(アラワク・インディオ)がほぼ全滅させられ、その後アフリカから労働力奴隷として黒人が連れてこられ、次いでイギリスの植民地とて300年という長い歴史を持つ。ヨーロッパの踏み台としてのみ中世末期からごく近年までその存在がヨーロッパ中心史に許されただけのこのジャマイカ。ジャマイカがヨーロッパ社会から独立したとはいえ、そのシステムは、国を支える経済も含めて、まだまだヨーロッパ「近代」の統治下に置かれたままである。
 ジャマイカにとっての<自立>とは何であるのか。部外者である私がこうであるということは許されないことであるが、少なくとも、一日中道端で立ちすくみ、スピードを上げて通り過ぎようとする車に近寄り、朝早くの涼しい間に山林に入り込みもぎ取ってきた自生の果実を、きわめて低廉な値段で売って生きていかなければならない少年たちが大勢いる。彼らはこのままでは最下層貧困の生活苦の生涯を終えなければならない。その分かり切ったストーリーを、「仕方がないことだね」というしたり顔するほどには<近代ぼけ>はしていないつもりである。私にも、いや我が日本にも、そしてヨーロッパにもこうした時代・社会があり、生活があった。そしてそれを克服するために、国権と民権の相克があり、国権支配下における民権の実現という<近代>の形を採用した。が、その末路は今やアイデンティティ喪失であるという哀れな現実である。だから、「我に追いつけ、我をモデルにせよ」などとおこがましくて言えないという、こちら側の主体の問題もないわけではないのだ。 
 遠い祖先がアフリカにいたのだから彼らの故郷もまたアフリカである、という論が最近見られる。ジャマイカのガイドブックにもそれを匂わせる記述が目に付く。労働力奴隷として500年余(1)この地に住み着かされた彼らは、「いかにして住み着くか」という主体的な努力を行って生きてきた生活主体者でもあるという視点を忘れてはならない。
 彼らはスペインそしてイギリスというヨーロッパ社会・文化の権化の元で逞しく生き抜く知恵を絞ってきたに違いない。彼らの祖先がアフリカから身体にしみこませて持ってきたものの中からヨーロッパ社会・文化の踏み台として有効なものだけがふるいに掛けられ、残すことを許された、それだけが彼らの継承財産である。それらの継承財産が時を経て、彼らの、すなわちアフロ・ジャマイカンとしての固有文化となって形成されていると見ることの方が正しいのではないか。異文化の者を支配的に同化させるには自文化理性を異文化の者に分与することが手っ取り早いし、確実に同化は進む。植民地同化主義である。
 ジャマイカの至るところで目立つのは学校よりも教会の数の多いことだ。そしてまた敬虔なキリスト教徒がじつに多い。日曜日にはきれいに着飾り、あるいは正装をし、教会に出かけるジャマイカン。あの貧困な日常的な姿からは想像することは難い。間違いなく500年の歴史は、ジャマイカンの理性のかなりの多くの部分にヨーロッパ宗教を根付かせている。労働力奴隷が文字(書き言葉)という文化を獲得するにはかなりの時間を有したが、言語(話し言葉)は相当な早いスピートで獲得させられているのも、こうした教会の数の多さとは無関係ではないであろう。ヨーロッパ中近世そして近代にかけて教会という「言語による同化システム」を以て民衆教化、啓蒙を果たしたと同じシステムが、ジャマイカには根強く存在している。学校は中近世教会による教化システムを近代的に再編したものに過ぎないといっても過言ではないことが、ジャマイカを見ているとじつによくわかるのである。ジャマイカは学校確立の過渡期にあるわけである。
 教会を通して労働力奴隷に与えられた言語はスペイン語、そして続いての英語である。アフリカンが身体にしみこませてきたであろう彼らの独自の言語は当然のごとくふるいに掛けて落とされた。アフロ・ジャマイカンが今日身につけているのは、公用語とされている英語である。スペイン語を操るジャマイカンがいるらしいことは道路標識が英語を主体としスペイン語が書き加えられていることで知ることができた。だが、スペイン語がどれほどに日常的なのかは不明のまま帰国せざるを得なかった。今後の課題となっている。
 さて、言語の問題で、同化と異化について話を展開していきたい。現実のジャマイカンのリタラシーがどれほどであるのか知りたくて文献を求めたが、残念ながら入手できなかった。今この論を展開するにあたっては、あくまでも推論の上で語るしかない。識字率の高さを測るには学校教師の社会的経済的地位の高さが一つの尺度となる。"The How to be JAMAICAN Handbook"はジャマイカ俗文化論といったたぐいの書物であり、正確な統計などから見たジャマイカの姿を描いたものではない。だが、こうした類の書物は実感的に文化の本質を知ることができる。この本に、誰がどのような車に乗っているか、というページがある。ジャマイカでは車は一つの社会的ステータス・シンボルなのである。それによると、学校教師はミニバスに乗る、とある。ちなみに大学教師は1968年型フォルクス・ワーゲンとなっている。ガンジャ売人やレゲー・スターは最新の.BMW、政府要人はボディーガード付きの黒く窓が覆われたボディの黒い車、ビジネスマンは新しいISUZU車、HONDA車となっている。ミニバスというのは「ジャマイカ時間」で走る(すなわち、時刻表通りには来ない)、「顔と顔、尻と尻、おなかとおなかとつきあわせて、ギューギュー詰めになって乗る」公共用大衆自動車のことである。これを見て推測できることは、ジャマイカの学校教師は(ついでのことに大学教師も)社会的経済的地位は高くない。
 道端にずらりと座り込んで並んで時を過ごしているのは南国独特の暑さのため労働意欲がわかないことにもなるのだろうが、近代はそれらの不可抗力な環境を超克するために労働環境の整備にも投資し労働量を驚異的に高めたわけだが、ジャマイカではそれがまだ十二分に機能していないことを知ることができる光景である。不可能を可能にしてまで生産量を高めるほどの近代化はなされていない、そのための労働力養成も充分にはなされていない事実から、リタラシーは高くはないことが推測される。要するに文字による教化に対する社会的代価は高くはないということになる。
 もちろん、こうした<低文化>状況の下で生涯を生きることを是としない人たちがいることは近代化の道筋を知る者にとっては容易に推測が付く。そして、その近代化をどう進めるのか、そのあたりはたいそう気に掛かるところである。やはりジャマイカ滞在時に入手した"UNDERSTANDING JAMAICAN PATOIS"という書物がある。これぞ、私が求めてやまなかった、労働力奴隷が異文化社会における数百年の定着過程のなかで主体的に自己形成してきたものの証の一つである。教会などの教化機関を通して<正当な言語>(すなわち支配言語であるスペイン語、そしてその後の英語)に同化させられた労働力奴隷は、その<正当な言語>を彼ら風の言語、すなわち<ジャマイカ語>(ここでいうジャマイカ語は、独自の語族体系を持つものではなく、あくまでも支配言語の変容である。たとえばイギリス本土から見れば.. ――すなわち、公用語としての英語から見れば――、<ジャマイカ方言>ということになる)に作りかえていく。スラングに近いといえば近いが、スラングがある種の階級性を属文化として持っているのに対して、<ジャマイカ語>はアフロ・ジャマイカンにおける生活語であるという点で差異があるといえよう。すなわち異化を彼ら独自の生活スタイルの形成過程の中で進めてきているわけである。方言狩りなどの被経験を持つ私にすれば、<ジャマイカ語>が学校現場で狩られているとするならば、ジャマイカの近代化はいずれ失敗に終わるだろうと言いたい気持ちが強い。
 この危惧は本書の中にごく自然に書かれていた部分で解消することになる。というのは、ジャマイカの学校で採用されている教科書には、左側ページに公用語としての英語、右側にそれに対応する<ジャマイカ方言>が表音表記で.. ――つまり、<ジャマイカ語>にはそれ独自の文字を持たないために――、しかも右左のページが色替えされて印刷されている、という記述を見つけたからである(2)。「ジャマイカの学校で採用されている教科書」というのが普遍的な教科用図書のことを意味しているのか、それとも特殊なものであるのか、そのあたりの記述が見つからないので不明である。しかし、そのことは私にとってはどうでもいいことなのだ。要は、同化と異化とがこれほど見事に記述されている教育材、すなわち学習材が存在する、という事実がある。子どもたちは同化言語・言葉としての英語の学習を通じて、彼らのアイデンティティの源である<ジャマイカ語>の言語・言葉を獲得すること、これぞ、我が生活綴方、WHOLE LANGAUGEと相通じる、否、通じあう教育の文化形態の存在を知ることができたわけである。
 まだまだ<ジャマイカ語>を文字化する作業は入り口にあるらしい。だが、その奥行きがかなり豊かなものとなるであろうことを強く願い、もし叶うことならば、こうした意味でのジャマイカンとの交流は私の教育学研究の新しい、しかし連続性のあるものとして位置づけていきたいものである。


(1) 奴隷解放は.. 1815年ウイーン会議における奴隷貿易廃止の原則でヨーロッパ社会の通念となる。イギリスでは.. 1833年奴隷制が廃止された。従ってそれと連動してジャマイカのアフロ・ジャマイカンは自由人としての権利を回復したことになる。しかしながらジャマイカ社会そのものはイギリスの植民地として統治され、イギリス王室に対する忠誠を誓わせられるし、彼らが獲得する知そのものもイギリスに服従させられることになる。本格的な自由人としての権利の育成の社会システムは、奴隷制廃止後 百数十年後の1962年にようやく成立したに過ぎない。ちなみにアメリカに奴隷制廃止は1865年のこと、南北戦争という血を流した結果である。
 奴隷制廃止について考える際にいつも引っかかるのが、「自由人としての権利の回復」が宣言されたとたん労働力奴隷であった立場にどのような変化が起こったのであろうか、ということについてである。少なくとも労働力売買が公然となされなくなったことは指摘できるだろう。しかし、それ以外、彼らは自由人である基盤−たとえば生産力基盤となる資産・道具など−を獲得したのであろうか、もし獲得したとしたらどのような方法・プロセスにおいてであろうかなどなど。少なくとも私の中に培われた近代知で解き明かすことはできない現実に、ただうめくばかりである。今後の大いなる自己学習に期待する他はない。
(2) 例示:
A wa y u a say? What are you saying?
Wa im en tell uno say? What did he tell you? plとしての.. you