変心?それとも・・・

 セガン1842年の不治者救済院での実践報告書のあとがきを読む。この記録はわが国の研究史では長い間「未発見」扱いされてきた。従って未邦訳である。セガンの白痴教育論としては第4論文になるが、ここに来て始めてセガンは、自身の白痴教育実践が手がかりとした研究領域を明らかにしている。まずイタールからは「知覚」を、エスキロールからは「(白痴の)概念」を、エルヴェ・ドゥ・セゴアンからは「発話」を、ヴォアザンとフェリュからは「白痴教育実践」を頼りとしたという。エルヴェ・ドゥ・セゴアンなる人物を調査するのに随分と時間が掛かったけれど、彼は「吃音」の研究と治療の専門医だったようだ。著書なり論文なりを入手できればと懸命に探索したが、今日のところは発見できず。
 この論文で、セガンは、イタールが彼の師匠であることを明らかにしている。ただし注記だが。その筆致は極めて好意的である。
 「イタール博士は我が父とはヴァル・ドゥ・グラスでの元学友で、私の最初の研究をしっかり指導しようとしてくださった。そればかりではない。彼が1800年以来白痴教育に関して集めてきた宝の山ー観察結果を一気に私に開示してくれた。それらは、イタールが彼の最初の生徒、かの名高いアヴェロンの野生児に教育を施した際のものであった。彼は、もう決して使うことのない資料を私が意のままに使うことを許し、40年におよぶ経歴を有する非常に素晴らしい仕事を私の若々しい情熱に任せたのであった。」
 ところが、翌年の1843年論文になると、イタール批判が強くなされた。それはイタールが依拠した哲学の誤りだという指摘である。1856年論文ともなると、イタール批判はさらに激しくなり、「6年間いじくり回した挙句成果が得られないのである病院に幽閉してしまった」と「ヴィクトール実践」の結末を描いている。1842年論文では「40年間に及ぶすばらしい仕事」と言っているにもかかわらず、「6年間の惨憺たる仕事」とする。
 思索と実践とが深まれば当然批判の目は強くなる。それはその通りなのだが、「40年」がわずか「6年」の仕事に摺りかえられてしまっていることに、大きな戸惑いを覚えてしまう。ぼくが、セガンはイタールの業績そのものは口伝されていないのではないか、との疑念を持つのも、このあたりが根拠となっているわけである。