朗報あり 悲しみの知らせあり

 このところ進路相談を受け、研究計画の指導などをしていた伊藤君が某大学大学院に合格したとの知らせ。気負いすぎのところがある、それだから生真面目な、いまどき珍しいタイプの青年である。見た目はホスト風なのだがね。これからこそが正念場、しっかり他山の水になじんでほしいと思うところ。
 昨日久しぶりにS先生と長電話。近藤益雄研究のようす、今しなければならないことなどをお伺いした。はじめはか細くつぶやくような声だったが、1時間を過ぎる頃には元気なお声になった。かまぼこみたいに机に朝から晩まで張り付く毎日だそうだ。そりゃ、先生、私も似たようなものだけど、外の空気をお吸いになるべきです、と申し上げる。史料調査のご依頼をいただき、さっそく、ファックスでお送りした。
 セガンについては、アメリカ時代のセガンによってすべてを語ろうとしたことは誤りであったと自己批判をされたが、セガン研究の本質には誤りはなかった、と声を大きくして語られた。今後の研究方法についてご助言をいただく。1846年著書をちゃんと研究せよ、と。いや、1843年論文の方が意味がある、丹念に読みたい、とお応えした。併せてこれまでの誤訳に基づくセガン研究の軌道修正から始めたい、と申し上げる。
 結局、S先生の白痴教育の評価視点は、「全人格教育か否か」というところにある。先生がルソーにこだわっておられるのもそういうことになる。「全人格教育」というテクニカルタームを歴史的に捉えると、ルソーが「市民教育」と明言していることとどう関係するのか、という問題になる。それは「その時代社会の中で自立するとはどういうことなのか」という問題に行き着く。おそらく、研究はそういう方向性を強く意識していくことになる。現在のところ、セガンからは「全人格教育」というテクニカルタームを導き出すことはできない。
 セガンの翻訳の話の中で、中野善達先生が急逝されたことを伺う。一度もお目にかかることがなかったが、これまでのぼくの研究者生活の中で、大きな大きな存在であった。ある意味「討つべき相手」という意識があった。その意識は変わらないと思うが、S先生は、「死者に鞭を打つことは慎みなさい」といわれる。うーん、そういうことになると、先行研究批判はできない、ということだ。それは困ること。
 研究室PC、ハードもソフトも壊れてしまった。あと一ヶ月で更新される。それまでの辛抱。