承承前 changeな人生 その3

 セガンが「白痴」教育を手がけ始めた頃、ヨーロッパでは「白痴」たちの処遇が二通りあった。ひとつは、「白痴」の子どもの家庭が全責任を負っていたーブルジョア、裕福な貴族などー、もうひとつは、社会が「白痴」への責任を負っていた。後者は「施療院」とか「救済院」とか呼ばれる社会施設に「白痴」を終生収容し、医療実験などの対象としていた。この場合、ほとんどの「白痴」は貧困家庭や遺棄をバック・グラウンドとしている。
 セガンが「世話」を依頼されたのは前者をバック・グラウンドとしていた。つまり、裕福で社会的地位の高い家庭の子どもの「世話」をしたということである。「世話」の具体的課題は「自立」である。社会関係の中で生きる、労働をする、そういう人間に育てる、ということであり、「人間とは何か」というようなことを研究するために「白痴」の訓練をあれこれしていた精神医療学者たちとは、その目的から言って、一線を画していた。「白痴」たちにとっては一大change、歴史的な試みとなる。
 1838年1月からはじめたこの「白痴」の自立のための教育は14ヶ月の記録要旨が残されている。15ページからなる冊子にまとめられ自費出版された。そしてこの実践記録「H氏へ われわれが14ヶ月前からなしてきていることの要約」(第一論文)は大きな反響を呼ぶ。ひとつはセガン自身が、すべての「白痴」の子どもの「自立」教育が可能ではないのか、という確信と自負を持ったこと、二つは、ヨーロッパでセガンと同じような試みをしていた人たちに先駆的な業績として注目されたこと、三つは、「白痴」の子どもを持つ家庭がこの要約を手にし、「白痴」教育の具体的な方法・指針を訊ねるようになった、ということである。
 セガンが自費出版したパンフレット「ご子息の教育に関する、O氏への助言」(第2論文)は、先の第3に属するものとして注目される。第一論文は1839年4月23日に校了したことがセガンの手で記されている。第二論文はそれより2ヶ月後の6月20日の日付が記入されている。第一論文を読んだ「O氏」が「2ヶ月で指針を示してもらえないか」という依頼をした、それを受けて書いたのが第二論文。そういう推測ができる一文が第二論文にある、「(あなたからいただいた)課題を(私が)果たすには二ヶ月かかると(あなたは)推測されました。(まさにそのとおりに)あなたは私にそのように求めたのです。」と。
 第二論文は、「白痴」対するある歴史的処遇を推測させる、重要なものである。それは、貴族・ブルジョアジーたちの財産継承等法や社会慣習的な問題と絡んでくる。たとえば、財産継承には、継承者が宣言し(誓約し)、署名しなければならない。それができなければ、財産は没収となる。結婚を考えても誓約・署名ができなければ制度的な結婚は不可能である。不可能ならば結婚という財産継承セレモニーは成立しない。貴族・ブルジョアジーたちは、財産継承のためには、どれほどのお金を掛けてでも「白痴」の子どもに、誓約・署名ができるようにと、あれこれ格闘してきたという歴史問題となる。「O氏」はそのために、セガンの自立教育論を生かそうとしたのだろう。
 セガンは、どれほどの成功報酬を得たのだろうか。こんなことも興味が尽きない。
 歴史的なchangeには、さまざまな思惑と、方向と、方法と、哲学と、色々生み出す。セガンを通してそれらを見ることができる、今である。