承前 changeな人生 その2

 1836年に芸術論を新聞に発表し、それを元に初の著書を出版する手はずになっていたが、大病を得てしまう(病名は不明)。
 死から逃れて回復期にあった1837年のある時、セガンに大changeの機会が訪れた。「白痴」の子どもの世話をしないか、という誘いである。ゲルサンという児童病院の院長が「白痴」の子どもの世話について、かつてその開拓的業績で世界的に名を知られていた、現在は世界的に名の知られた聴覚学者で聾唖学校の主治医を務めているJ.M.G.イタールに相談に赴いた。イタールはもう年齢的に実際に世話をすることは難しいが、誰かが世話をするというのなら、その援助はしましょう、と返事をした。そこでゲルサンはセガンの名を出した。イタールはセガンの父親とかつて医学臨床の場で一緒に学びあった仲である。そのことが効したのだろう、セガンはゲルサンからの申し出を受け止め、医療の世界も教育の世界も、今日的に言えば福祉の世界も、何も知らない25歳の青年が、大イタールの助言をえながら、アドリアンという「白痴」の子どもの世話=自立訓練に踏み出す。これこそ大change!
 ゲルサンとセガンとの関係はどのようなものであったのかを残す記録はない。サン=シモン主義「家族」は市民生活の中に入って無償の医療や教育を提供している。そうした関係があったのかもしれない。セガンが大病を得たときその主治医がゲルサンであったのかもしれない。セガンが住まいを構えていたところとゲルサンが市中に開業していた個人病院とが近くであった、という関係性があったのかもしれない。コレラ波がフランス中に押し寄せたとき、ゲルサンは医療チームの一員として、セガンの出身であるブルゴーニュ地方ーとりわけヨンヌ県ーに出かけている(1832年ごろ)、セガンの父親ジャックも地域医療でコレラと戦っている。このときゲルサンとジャックは既知の間柄になった、ということなどもあるかもしれない。すべて推測でしかないが、可能性として消去することはできない。
 が、とにかく、こうしてセガンは、全く未知の世界、「白痴」の子どもの「自立」教育へと踏み込んだのである。そして、やがて、その「自立」教育は、すべての「白痴」の子どものために意義があり、有効であることが世界に受け入れられていく。セガンにとっても、「白痴」の子どもにとっても、いや人類にとっても、大きな大きなchangeへの開始であった。