大改訂版:セガンとルソー

 清水寛「ルソー『エミール』の自然主義的教育の思想とセガンの生理学的教育」(清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』第1巻所収論文)に「セガンにはそのフランス時代(1830年代〜1850年頃)から、・・・好んでルソーや『エミール』の文・事例を引き合いに出す傾向が見られる」(280頁)とある。検証抜きの言辞なので、代わってぼくが検証しなければならない。
 セガンが白痴教育論をしたためているのは、1839年2本、1842年2本、1843年1本、そして1846年1本である。1842年までは言ってみれば実践記録、1843年からは教育実践を元に体系化したもの。すべてを丹念に読み切ったわけではないので後に訂正しなければならないだろうが、ルソー及び/乃至エミールが登場するのは1843年からである。その引例のスタイルは、果たして清水寛氏が言うような「好んで」しているものなのだろうか。
 1846年著書では、ルソーの名が登場するのは ①p.9、②p.326、③p.328、④p.330、⑤p.331、⑥p.340、⑦p.403、⑧p.727の計8カ所である。1846年著書の構成と引例箇所との関係を記すと、前書き①、第1部白痴症(idiotie)について、第2部白痴(idiot)の衛生②③④⑤⑥、第3部白痴の教育(第1セクション)⑦、第4部白痴の教育(第2セクション)、第5部白痴症の精神療法⑧、となっている。『エミール』が登場するのは⑥p.340のみである。
 セガンがルソーをどのように位置づけていたのか。上記の①〜⑧の記述論理の特徴から洗い出してみたい。
①は、触覚、聴覚、視覚、味覚、嗅覚という感覚が人間の精神を形成するに優位であるという18世紀の啓蒙主義を論ずる文脈のなかで、ルソーの名が登場している。「イタールは、ルソーやコンディアックと同じように、感覚の教育の有用性をよく理解していた。」
②〜⑥は、セガンが行った白痴教育とペレールの(発話法による)聾唖教育との間には深い関係性があるとの趣旨を述べるくだりで(「結局のところペレールは私と同じ視点に立っていた」)、そのペレールの実践をしばしば参観したのがビュフォンやルソーである、との記述論理が繰り返されている。
そして
⑦にいたってようやくルソーの名が単独記述され、『エミール』も登場する。「ルソーはすばらしい本を書いている。ただ一人だけにする教育を論じているにしか過ぎないが、うまくすれば、多数にする教育ができるだろう。主著の一つで『エミール』との書名がつけられている。そして、それは、本当の心理学的生理学的原理に裏付けられている。」
⑧は同書の結びに当たる箇所で、ラブレーの名とともに出てきている。「もはや彼らの理論は机上にも学校にも見られない。」とある。

 以上を見ると、セガンはルソーを高く評価していると言ってよい。しかし、「セガンはルソーに影響を受けた」という巷間の説には同意しかねる。