う゛ぁがぼん漂流記

 ぼくは愛郷家ではない。だから、研究においても、元いたところが何であったのかさえわからないほどに、あれこれと引っ越ししている。その時々の時の流れの中でつかみ取るというのがぼくの研究スタイル。かといって時流に乗るわけではないから、名声も財も得られない。
現在はセガン一色だが、少しその打ち込み方にかげりが出始めているのは正直なところ。とりあえずあと一年間は打ち込むが、そのあとはおそらく別の世界に生きようとしていることだろう。
 知り尽くしたわけではない、それほどの情報処理能力はないから。しかし、少なくとの日本のセガン研究は史実に虚像を加味してきている。その虚像部分をはぎ取る作業も、もういいだろう、という気が起こってきて、さて、セガンの史実、すなわち「白痴、および他の、発達が止まったままであったり、遅れていたり、不随意運動が激しかったり、虚弱であったり、聾唖であったり、吃音であったりなどの子どもの、精神療法、衛生、教育」について、ぼくが新たな視角を提出できるか、と問うてみると、不可能の文字ばかりが飛び交う。だとすれば、これまで進めてきたセガン研究で得た「財」を背負って、別の世界に移り住むことも素敵なことであろう。
 昨夜、こんなことを考えた。

 2003年にセガンと研究的に出会ったとき、清水寛先生から最初に教わったことはセガンの犠牲的精神に基づく博愛主義者像であった。こんなことが例示で出された。「セガンは白痴の子どもたちの教育のために文筆活動で資金を得ていたのです。私財を投げ打ったと言っていますね。」セガンの追悼の記でアメリカの友人が清水先生と同じようなことを書いている。いったいその根拠は何なのか?
 ぼくができることはセガンの著作を丹念に読み、そこから情報を得ることしかない。

 『1846年著書』の抄訳が明治図書・世界教育学選集に収録されている。我が国のセガン研究の開拓者の一人松矢勝宏氏の手による。中野善達氏によるセガン関係の訳書に比べると遙かに正確であり、安心して読むことができる。
 同書133頁に「しかるに白痴児の教育は、私だけによって、ある時は私財をなげうって、あるときには限られた資力で実施されたのであり,...」とある。
 なるほど・・・と思いかけるが、待てよ、という心が追い打ちをかける。
 25歳の時から白痴教育を手がけるわけだが、「私財」と呼ぶほどのものを彼は蓄積していたのか?あるとしたら、親からの財産分与だろう。何せ、法学部学生で社会運動にのめり込み警察のやっかいになっていることはあっても、働いた軌跡はないのだから。それに、文筆で日銭を稼いでいたと言うが、文筆活動で得る金額の予想もつかない・・・。
何か、ほかにこのことについてのヒントとなる記述はないものか・・・。同書序文に次のようにある。(111頁)
「この長い間、最初はイタールに、次にエスキロルに助言を受けたが、まもなく私個人の力に任せられたので、まったく一人で資料を探し出さねばならなかった。・・・」
原文に当たると「・・・資料」にあたるところはj'aidù chercher en moiseul les ressourceとある。では、「私財」の原語はどのようなものなのだろう?先の引用部分はtandis que l'éducation des jeunes idiots n'ayant été pratiquée que par moi, tantôt avec mes seules ressources tantôt avec des ressources restreintes,となっている。
 ressourcesを松矢訳書では「資料」と「財産」との両方の使い分けをしていることがわかるのだが、しかし、文脈で適訳を探し出す必要があるだろう。セガンは、要するに、精神科医のように学的環境の中で白痴教育を進めたのではなく、まさに独力で適切な資料を求め、独力で開拓したのだ、ということを言っているわけだ。
 誤訳はつきものだという。ぼくもホール・ランゲージに関わって誤訳書を出した。深く反省している。しかし、文脈を誤ってしまっては誤訳以上の誤りを犯しているのではないか。そう強く感じさせられる。しかしながら、おそらく、その訳の誤りを正すことも、さほど意義があるようには受け止められていない。
 尊敬する西口敏治先生が「何で今更セガンなの?」とおっしゃったことがすべてを表しているように思われるのである。来年の今頃は、「さらば、セガン!」と表明し、「こんにちは、○○○○!」と言っていることだろう。明日からサバティカルセガンの未解明の部分と白痴教育論の構造の構築作業と○○○○の鮮明化の作業とに、精一杯力を尽くしたい。
 新版う゛ぁがぼん漂流記の幕開けだ。