学級通信

 今朝の読売新聞の読者の声欄に、学級通信をたたえる文が載っていた。自分の子どもの担任が学級通信を継続して発行しており、そのことによって、学校の様子、学校での様子などが、教師の子どもたちへの願い、教育への意欲などに添えられて、伝えられてきた、という。投書によるとその担任教師は30年間学級通信を出し続けてきたという。ぼくなども、生活綴り方史を研究するようになり、必然的に教育現場との交流も深まってくる中で、学級通信の教育的意義の大きさを痛感するようになった。教師教育をする中でも学級通信の意義を語り、教育研究会でも「一枚の学級通信でもいいから持ち寄ろう」と呼びかけ続けている。学級通信には、教育実践のすべてが、綴られているからだ。
 しかし、時折聞こえてくる教育現場の圧政、暴挙。「学級通信発行罷り成らぬ」の声。大方の形式的な声は、一人の教師が発行するとほかの教師がなぜ発行していないのかと親から突き上げが来る、教育の平等性に反する、というのだ。学級通信発行は校務・公務ではないから、通信発行に関わる経費を公費から支出することはできない、というのも少なくない。
 教師は高度な専門職である。専門職であるということはその専門性に関わる研究責任を持つ。教師の教育研究とは実践そのものであるわけだから、教師個々に付与された研修権(研究権)に従って、自らの研究の証と研究の課題を鮮明にすべく、その一つの方法として学級通信を発行することは、何らとがめられるべきではない。
 しかしながら、現実の教育界は権力的ヒエラルキーに支配され、教師の研修権は、管理上命令されたもの以外は認められないという教育行政論がまかり通っている。まったく全体主義国家そのものの姿を見せている。いわゆる先進国では信じられないことである。
 学級通信が大いに活用されて、「教科書外教育」が豊かになった時、日本の教育は理性が輝く教育になることだろう。読売新聞投書氏の願いが実現するというものだ。