セガン初期実践ー第1教育論解題のために 2

 セガンは「アヴェロンの野生児」で名声を得ていたイタールの指導を得て白痴教育を手がけた。イタールが死んだ後は精神医学者のエスキロルの指導を得たという。エスキロルは「白痴は病気ではないが終生その状態を変えることはない」と発表した。だとしたら、セガンの指導をなぜしたのか。「無駄だ」ということを言い続けたのか?それはあるまい。だとしたら、なぜ?このことを埋めることがいまの大きな課題である。そこに至までを次のように書く。
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 人を介してアドリアンという子どもの教育に携わることになった。白痴教育の先駆者で若い頃の父の友人だったJ. M. G. Itardの先導があったという。セガンは次のように述べている。

「イタール博士氏はわが父とはヴァル・ドゥ・グラスでの元学友で、私の最初の研究をしっかり指導しようとしてくださった。そればかりではない。彼が1800年来白痴教育に関して集めてきた宝の山=観察結果を一気に私に開示してくれた。それらは、イタールが彼の最初の生徒、かの名高いアヴェロンの野生児に教育を施した際のものであった。彼は、もう決して使うことのない資料を私が意のままに使うことを許し、40年に及ぶ経歴を有する非常にすばらしい仕事を私の若々しい情熱に任せたのであった。」

 なるほど、セガンの初めての白痴教育実践は、セガン自身が言うように「イタールの下絵による鋳造物」(1846年著書、323頁)とみなされよう。イタールがヴィクトール少年に行った教育・訓練をそのまま想起させられる叙述が、第1教育論に見ることができるのである。
 同教育論は1838年2月15日から翌1839年4月15日までの記録だと記されている。イタールは、1838年に入るとリューマチに苦しんでいた。そして同年7月4日、療養先のパリ西郊外のパッシーで死亡した。とすれば、さほど長い期間、セガンはイタールから直接手引きを得ていたわけではない。イタール亡き後、セガンは当代の実力者の精神医学者エスキロルが開設していた「健康の家」に、毎週、通った。エスキロルは「白痴は病気ではないが、終生その状態を変えることはない」という学説を打ち立てた人物である。その立場からいえば、アドリアンが本当に白痴ならば、イタールの指導も、セガンの実践も、無駄骨に他ならないはずである。何故にエスキロルはセガンの訪問を毎週受け入れたのであろうか。