気に入らん しんどい

 自分のことを輝いて見せようとすることと史料の書き換えということとが一致していたとしたら、ぼく、こんなん、好かん、キライや。
 それにしてもなぁ・・。歴史的にアテにされてきている文書やでぇ.一昨年、原典を、つまり生史料をカメラファインダーから覗いた時、「あれ?おかしいなぁ」と思たんやけど、ぼくの語学力はアテにならんしなぁ・・。
 この史料は同一文が二つの文献で重要な資料として掲載されてる。その史料の主人公はセガンさんであり、二つの文献はセガンさんの書いたもんや。セガンさんに対する史的な評価は、当然、この史料によるわけやな。
 セガンさんが自分で紹介している史料は、セガンさんの実践は優れたものであること、せやさかい、関係者は「セガン氏によって用いられる方法の進展と効果を吟味しなければならない」、とで結ばれてるんや。
 で、ぼくが見た生史料ではそういうイントネーションはない。セガンさんは、自分の実践が確かなものであることを明らかにするためにその場を提供してほしい、と申し出たんやけど、その場を提供しよう、ついては・・・という訳でいろいろと条件がついてる。1年限りの約束、医師の管理に従うこと、実践の成果があったかどうかはちゃんと審査する、ということや。
 えらい人やなぁ、と思てしまうとえらい人になってしまう。セガンさん、読者のために親切を考えて当事史料を詳しく書き加えたり、余計なものを省いたりしたんやろうけど、それ、全部、セガンさんの主観や。その主観に振り回されるんやで、世の多くの人は、原典が見つけられて広められるまでは。
 あー、しんど。