あとがき ー こんなん

 障害児教育関係の書籍には必ずと言っていいほど、セガンの名と業績とが記述されている。さらに詳しい記述では生育史の記述に及んでいる。私が各種のセガンに関する記述に大きな違和感を覚えたのが、主に、生育史に関してであった。とりわけ、ジャン・ジャック・ルソー『エミール』の影響がセガンの生育にとって確定的であるかのような記述に関してその感を強くした。教育学の世界では『エミール』は「子ども発見の書」として尊重する原則を強く持っているが、その一方で、『エミール』に描かれている養育方法によれば、女性は必然的に社会参加が妨げられる事実を生むことになる。事実、フランス革命期のロベスピエールや帝政期のナポレオンⅠ世が『エミール』を強く支持し、前者が三人の女性をギロチン台に送ったし、後者が近代家族制度を確立している。いずれも「女性よ、家庭に入れ、社会や政治に口を出すな」という社会建設を標榜する。この限りで言えば、この女性観は近世から後退したものである。
 では、セガンという固有の世界における事実はどうであったのか?
二〇〇四年一一月のオーセール、二〇〇五年三月のクラムシーでのフィールドワークが、私のセガン研究の第一歩であった。オーセールではセガンが在籍したコレージュを探り当て、写真に収め、クラムシーでは、市と地元学芸協会との協力を得て、セガンの生育史に関わる公文書等の閲覧をすることができた。この作業で先行研究の主観的解釈の誤りが明確になった。つまり、セガンの生育史において『エミール』は直接要因にはなり得ない、ということである。
 二〇〇五年一一月のパリでのフィールドワークでは、偶然、「セガン教具」と出会ったことから、一九世紀の医療・福祉史関係の調査を通して、セガンのイディオ教育の公文書などの閲覧に恵まれるようになった。公文書に残されたセガン像は、教育実践の場を提供してもらいたい、と関係当局に度重ねて請願する、非常に積極果敢な青年である。この積極性があればこそ、セガンのイディオ教育が今日まで語り継がれるところとなったのだと、感慨深いものがある。