志摩研レポート

言葉と教育の学集会(志摩研)雑感文 2010年2月14日 学習院大学教職課程閲覧室
竹内常一『読むことの教育―高瀬舟、少年の日の思い出』読後感 その1

p.188 「市民のための政治教育」に開かれた「普通教育としての文学教育」
 私の普通教育の被教育経験(学習経験では決してない)において、「文学」も「文学教育」も、そのターム自体が記憶にない。「文学教材」は内容としてあったのかもしれないが(今回レポートするにあたり、事実は調べていない。あくまでも私の記憶化された体験にのみ基づいている)、「国語」としてしか理解していない。つまり、文法事項であろうが、評論文であろうが、文学であろうが、すべて「国語」である。そして、他の教科の授業風景(あるいは学習風景)は記憶をある程度再現できるが、「国語」に関しては皆無と言っていいだろう。

閑話休題:いや、それは正確ではない、高校「古文」のある授業風景だけは鮮明に記憶に残っているからだ。―
前書きあるいは枠組み設定
 福沢諭吉学問のすすめ』は「学ばなければ卑しい人になる」と書いており、まさにその言葉に尻打たれて「学ぶとは、知的権威を持っている者によって与えられる情報の総量をどれだけ詰め込み、求めに応じてどれだけ吐き出すことができるか、なのだ」と信じ込んでいたはずの我らが高校教師の授業に対して、その場を如何にして「遊びの場」に変容させるかに「青春」を賭けていたぼくたちであった。たわいもない「遊び」であるが、古典の教師は顔を真っ赤にして怒鳴り続けていたのだ。
 教師「川口!お前は真っ先に落伍組だなっ!」
 川口「へーい、おありがとうごぜえますだ。」
(『学問のすすめ』に、学ばないと乞食になる旨の記述に引っ掛けた応答)
といった案配。
本論
 万葉人の冠位や業績を引っ掛けた「人名遊び」は面白いものであった。他でもやっていたと思うけれど。こんな具合。
山部宿禰赤人
古典教師が「官人としての履歴は全く不明」と板書するや否や、「宮仕えが少なすぎてアカン人やねー。ヤマベノスクネーアカンヒト」と囃したてる。
大伴宿禰家持
 古典教師が「宿禰」を「大伴」と「家持」との間に朱筆で板書挿入をした際、「こいつは稼ぎが少ねーのやなぁ。せいぜいヤカン持ちぐらいしかさせてもらえへんかったんやろねー。オオトモノスクネーヤカンモチ」。
この時古典教師は「彼は立派な少納言であったぞ」と返したが、「立派かどうか見たことも会ったこともないくせに!」と教室から野次が飛んだ。
教師は、少納言というのは天皇と国政とを結ぶ秘書官であると律令官制に話を進めようとしたが、教室内の出来損ない若者たちは「人格」を的としたのであった。東大に進んだ某君は「川口君、ヤカンモチやのうて、天皇のタイコモチやったんやって。」と一歩進んだ解釈をしてくれ、教室中が沸きに沸いた。
山上臣憶良
 あまりにも有名な巻第三337の歌。
 憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ
 古典教師曰く「妻子への愛情がじつにこもってますねー。」、アンチテーゼ「接待するんが嫌になったんやと思うな。ええ口実に妻子が使われただけや。」
 晩年の巻第五892貧窮問答歌(ぴんぐうもんどうのうた)を教わったとき、「雅」とは程遠い歌意にさすがのアンチどもも少しおとなしくなった。しかし、静寂を破る。
 「憶良らは今は腹減り子泣くらむそれその母も飯を待つらむそ」
 古典教師、ついに、アンチどもに唱和する、「ヤマノウエノアスモオケラ」。 (アスモ=臣(あそん))
教室中がどっと沸いた。
柿本朝臣人麻呂
 彼の歌によって「掛詞」なる技法があるのを教わった。我らアンチどもは、
 カキノモトノ、アッソー、ヒデェーヤロゥ
 と囃し立てた。「夏野ゆく牡鹿の角のつかの間も妹が心を忘れて思へや」(巻第四502)を、習ったときである。
 歌意:「少しの間とて君のことを忘れたことはないよ。」
 「なんて、気障なやつなんだ!きっと女たらしだぜ、こいつ」というのが、我がクラスの人麻呂像となった次第。つまり、カキノモトノ、アッソー、ヒデェーヤロゥなのである。

 こういった授業風景は「遊び」である。そして、結局のところ教科書や教師によって運ばれてきた「(国家的)正解」を探している。記憶に残っているこの授業は、「遊び」が思春期的なものであったからであろう。そしてそれだけのことでしかない。
 私は、「国語」の学校成績は優秀であった。けれども、その「学力」は高校や大学、さらには人生に、「勝つ」ためのものだと意識されていた。だから、「国語」総体の、点数で測られる(自らが生み出した価値を自らが測るのではなく)ことに、大げさでなく、喜びを覚えていた。高校時代のある友人、大学時代のある友人など、例えば「国語の授業で学んだ山月記云々」と語りを切り出し、人生を語り世の中を語っていたが、私はその語りそのものの意味さえ理解できなかった。つまり、「山月記」という枕の人生論が分からなかったのである。
 「点数をどれだけ取ることができるか」に思春期・青春期を生きていた私にとって、大学はさらにまか不思議なところであった。ただ一つ、「国語学概論」という一般教養の授業は没入して参加した。いわば、「正解探し」の根源を提示されたからであった。「川口君、今度夏休み帰省した時、近くのお寺さんの鐘楼に行ってみてくれないか。そしてその鐘がいつの時代に作られたのか、調べてくれないか。それを授業で報告してほしい。」と教師から指示があった。「できれば鐘の碑文の拓本を取ってほしい」との言葉が添えられた。その教師はこう言った、「大学で国語国文学という授業科目は、いずれ無くなります、日本語学、日本文学とすべきでしょう。」
近代政治によって教化のために創られた「国語」から離脱する日こそ、市民教育材としての言語文化が誕生するのではないか。そんな暗示を受けた「国語学概論」であった。が、その他の社会的遊びに熱中した私にとって、その暗示を理解し実践するにいたるまでは10年余の年月を必要とした。いや、今もなお、試行錯誤していると言っていいかもしれない。