「セガン」から「パリ・コミューン」へ繋ぐ

 セガンがアメリカに渡ったのは1850年1880年に没しているから、1871年パリ・コミューンは知っているわけである。1873年には全米教育視察団の代表者としてヨーロッパ各国を視察しているし、その際フランス・パリに立ち寄っているという。そうだとしたら、パリ・コミューンの残滓をその目に収めてもいるはず。このあたり、詳細に検討を要する問題だというのが、ぼくの「セガン研究」の今後の課題となる。研究の進展についてはいずれの日々から綴ることになるだろうが、今日はこの問題がぼくの意識のなかに留まっている「原景」について。
 2003年から04年にかけてのこと。『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(日本図書センター、全4巻)編集過程で、セガンの思想的立ち位置はどのようなものであったのか、というようなことを内意として、某先生が「これほど偉大な業績を残したセガンであるにもかかわらず、彼はパリ・コミューンを否定しているのですよ。」と言われた。「人間以下にしか見られていない白痴を、人間だと捉え、教育が可能なことを実証し、系統化した人=セガン」という枕詞を添えれば、某先生が言わんとされることは理解できよう。
 某先生がその根拠として『教育に関する報告』(1875年初版、1880年第2版)から引用される。同書でセガンはcommunismを徹底的に、とりわけ教育に関して、批判をしている。パリ・コミューンを名指しで批判しているのではなく、communismに基づいた生活や運動をしている組織体を批判している。某氏が同書の翻訳を依頼した某某氏が、訳文に添えて、「セガンはコミュニズムをまったく誤解している」とメモをしていた。詰まるところ、某氏も某某氏も、セガンのcommunism概念を同じく理解されたわけである。
 はて?セガンがcommunismの概念を使って批判している対象は教会主導の教育の事実であることは、同書を読めば分かることである。某氏や某某氏がセガンがcommunismについて曲解しているという解釈より先にやることは、フランス教育史における教会の果たした役割であり、その主たる担い手である修道士(女)たちは、共同生活をもっぱらとしていた事実を押さえることなのではないか。「共産主義」との社会科学用語ですべて読んでしまうと、「セガンは理解していない」という言辞を吐くが、「共同体主義」と訳語を当ててみれば、セガンが厳しく批判するフランス近代における教会主導型の社会が浮かんで見える。
 パリ・コミューンは、こうした教会主導型権力社会から民衆権力社会を構想したわけであり、また、公教育から教会を排除する、世俗教育を先駆けて実現した。セガンの言辞からおぼろげながら見えてくる彼の教育観は、パリ・コミューンのそれと合致しているのである。
 以上が、セガンからパリ・コミューンへと研究を進展させる理由である。