「セガン研究」総括ーM氏への手紙

M さん
 メールをありがとうございました。
 実は、すでに昨年6月末日に帰国しており、貴兄に送付いたしました『セガン・グラビア』は在外研修の成果の一端として帰国後まとめたものです。
 いただいたメールから感じたこといくつか。
1.セガンの芸術論の位置づけについて
 セガンが芸術評論を行っていた期間はきわめて短く、また3本の評論しか見つかっていません(おそらく他にはないものと思われます)。芸術分野をセガンが選んだのはサン=シモン主義思想と密接に関係していると判断することができます。つまり、1831年刊行の『サン=シモン教義書』を参考にして言えることは、サン=シモン主義思想の具体的体現の一側面が芸術(評論)だということです。この点、先行研究ではまったく触れられておりません。貴兄が推測されておられるように、セガンがその芸術論と、芸術論を公表して以降に手がけるようになった白痴教育とが何らかの関連があるのではないか、という研究視座が用意される必要があると、小生は思っております。が、いかんせん、能力不足がネックとなるところです。小生のセガン研究を批判的に発展させて下さる研究者が現れるのを待つしかありませんでしょう。
2.セガンの生育関係などについて
 セガンの生家については清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(全4巻、2004年、日本図書センター)のグラビア、および清水寛論文においてすでに明らかにされているところです。どこが表玄関かなどと些細以下でしかない問いを持ち続けておりましたので、その問いに対する自答をグラビアで示しました。
 とはいうものの、この「視角」設定は、じつは、これまでのセガン研究に対する「批判」を象徴したものなのです。もちろん、私の心の内だけのことですけれど。正直言って、少なくとも日本のセガン研究は完全に書きなおされなければなりません、生育史からセガンの白痴教育論の構造にいたるまで。
 ことのついでに、セガンの母親の家系等について、このグラビアがあらゆるセガン研究の先駆けとなっていることは、申し上げたいと思っています。そして、父親の家系で「セガンの生育」を論じるのではなく、母親の家系で論じなければならないとも痛感している次第です。
 生まれたのはクラムシーの医学博士の家であることは確かなのですが、育ったのはオーセールの母親の生家(つまり「祖母の家」)、そして、学歴の開始はオーセールの旧制度コレージュの伝統を持つ名門校。
 母親の血筋は革命、思想の進取(サン=シモン主義)のそれです。革命後のオーセールの市議会議員、市長などを務めている身内を持ちます。また、叔父は詩人として名を知られていたようです。
 父親の血筋はそれとは正反対と思われます。祖父は革命前の町(クーランジュ)の三役。革命なってからは完全に歴史の表から姿を消しているのです。
 幼少期を過ぎて学齢期に入ってから父親の望む社会エリートへの道を進みますが、後はご承知のようにサン=シモン主義者、急進共和主義者としての生き方を選びます。
 今回の研修では、ブルゴーニュ地方のセガンゆかりの地を回り、父母、祖父母の死亡証明書等当事史料、関係史料を入手することができたこと、そのことによって「史実」を確定することができたこと、が大きな成果だと自負しております。
3.「墓」について
 今回の研修では、セガン家代々の墓を探り当てることを当初目的として設定しておりました。当然クラムシーにあるだろう、との思いからでした。しかし、その目当てはまったく実りませんでした。なぜないのだろう。そういう謎解きをするおもしろさがありました。考えてみますと、我々が言う「セガン家」というのは父ジャック=オネジム・セガンをコアとしてみております。祖父の代以前はクラムシーではなかったのでした。父はクラムシーの「入植者」です。1808年頃といいます。そして、1870年父、1871年母の死を受け、アメリカ在住のエドゥワード・セガンが遺産相続をし、1873年に相続した遺産をすべて売却処分しているわけです。従って「セガン家」とクラムシーとは非常に薄い関係と言わざるを得ません。もともとクラムシーには「セガン家代々の墓」はないわけですね。
 この「発見」が一つ。それでは一体どこに「セガン家」の墓はあるのか、少なくとも父母の墓はどこにあるのか、という課題は相変わらず残ります。セガンはニューヨークで没していますから、ニューヨークにあるのでしょうか?
 二つ目は、セガンの「師」と自他称するイタールの墓を、3年越しで、ようやくカメラに収めることができたことは、とてもうれしいことでした。モンパルナス墓地に葬られたという記録に接してから探しに探して、ようやく見つけることができたわけです。案内も何もありません。研究書で墓標を公表しているのを見たこともありませんから、小生が初めて公表したことになるのでしょうか。
4.セガン教具について
 モンテッソリーはイタリアの医師としてビセートル救済院で研究を行いました。その際、セガンの白痴教育論、実践論ならびに白痴論に接し、非常に大きな影響を受けております。モンテッソリー自身がセガンの1846年著書を一言一句に至るまで筆写したと書いています。当然、それらがモンテッソリーの教育論の大きなベースになっているのでしょう。「セガン教具」という固有名詞は、じつはモンテッソリーによる造語であり、モンテッソリー法の中にその用語がとり入れられております。つまり、昨今「モンテッソリー教具」と一般に言いならわされているモノは、モンテッソリーの原著によれば「セガン教具」となっております。それほど密接な関係があるということはおさえておく必要があるように思われます。
 小生の研究課題としては、「セガン教具」の「源流は何か」ということです。もちろんイタールがその大きな基盤となっていることでしょう。しかし、「身体虚弱にして右手奇形」と20歳の時に診断されたその身体性と、「セガン教具」の持つ工芸的創造性・造形性との間には、あまりにも大きな落差があるように思われます。論証不能の推測ですが、セガンはアイディアを豊かに持っていた、そのアイディアを工芸職人に命じて制作させた、のでしょう。そのアイディアの出所はサン=シモン主義の「百科全書」であったのだろう、と思います。その意味でも、サン=シモン主義の研究をもっともっと深めなければなりません。その「政治主義」の「進歩性」だけで満足していては、「セガン」は何も分かりません。それと同時に、「ルソー」とはいったん切り離していかなければならないだろうと思います。この点も、小生の能力に余るところで頭が痛いものです。
5.ニューヨーク調査について
 今回の研修によって、小生は、まだ何もセガンが分かっていないことに気づきました。今年度はとにかくフランス時代のセガンを追求しよう、アメリカ時代は明年度以降の課題にしようと思った次第です。
 貴兄との約束―本年度ニューヨーク調査を行う―を忘れたわけではありませんが、自分自身の研究の進捗状況を考えますと、無理にニューヨークに渡ることはできないな、と思います。
 リュネ・デカルト大学のピエロ教授(社会学・教育学、デューイ研究者)と懇談した時、「セガン家」の墓、「イタール」の墓、「サン=シモン」の墓に話題がおよび、「では、オネジム=エドゥアールの墓はどこにあるのか?」と笑いながら問いが出されました。「分かりません。でも、ニューヨークだと思います。」と、答えました。この答えが正しいことを証明する作業は来年以降になる、と添えて。「非常に興味深く、意義ある研究で、医学、人類学、生理学、教育学、歴史学等を統合した学際的な課題・方法の設定は、これからの教育研究に求められることだと思います。」との評価をいただきました。セガン研究をしてきて、こういう視点から批評をいただいたのは初めてであり、かつ小生が言葉にできなかったことを言っていただいたことが、うれしくてたまりませんでした。

 長々と綴りました。ご容赦下さい。