ある友への手紙

 いよいよ新学期が始まりました。管理職者として大層お忙しいことと存じます。
 さて、過日差し上げました手紙でしたためました今後のセガン研究の件でありますが、同封いたしました研究課題レポートは大きな誤訳に基づく先行研究批判を行っておりました。誠に恥ずかしい限りです。しかし、先行研究が「『エミール』こそ・・・」と論を展開していることは明確に間違っている、ということについては、言を取り下げることはありませんし、「自然」概念についての批判も、取り下げることはありません。
 先行研究によって確立された我が国の「セガン」像は、とにかく『エミール』ありきでした。『エミール』がフランス社会で一般に好意的に読まれるようになったのは19世紀も半ば過ぎのことだということも、セガンと『エミール』との関連を語る上では見逃すことができないはずです―肯定的にせよ否定的にせよ―が、そういった社会史的な研究視点を先行研究に見ることができないのが残念です。
 これから、セガンの英語文献「1866年著書」を精読して参ります。意味を完全に取り違えるような誤訳が無いよう、心して取りかかります。はたして、「フランス時代には『エミール』の影響はなかった」、が、「アメリカ時代はそうではない」のか?「影響」という言葉で語るのは恐らく違うでしょう、先行研究が言わんとしていることは、「『エミール』こそがセガン教育学のコアである」ということ。それを打破するための研究ではなく、セガン教育学の構造を歴史的に捉える、という研究に進んで参るつもりです。