厳しい批判だ、が。

 昨日のある授業で寄せられた声(匿名)。
「学生には、授業を受ける権利があります。我々には、親にお金を払ってもらって、また自分で払って大学に通っています。それ相応の授業を受ける権利があります。先生によって授業の質が異なるのは、おかしいと思います。」
 風邪でやむなく休講にした以外は、チャイム・席をまじめに導入して(「チャイム・席」は日本のどこの学校でも導入している常識だから、それを意識し実践できるような教員の資質を養成する目的を持つ方法)、毎回授業内容に関わる資料(原史料、研究論文の一節など)を配布し、時々の主体的客体的条件に合わせて学生の授業感想・批判等を掲載した講義新聞を作成し、配布している。こうしたことはこの学生にとっては「受ける権利」としての「授業」ではないのだろうか。この間、求められる教員の資質についてややしつこく語っていることが強い反感を呼んでいることは承知しているが、そのことをもって授業を「受ける権利」が行使できない、と言っているのではあるまい。
 ぼくは可能なかぎり板書はしない。話を聞き取り、そのことによって自らの思考の発展を進めること、すなわち「考える」ことを重視しているからだ。
 ・・・しかし、まいったな。すべての授業に国家によって定められた教科書の使用義務の授業をすれば、「授業の質が異なる」などといわれなくなるのだろうか。