イタール、第3論文?

 アヴェロンの野生児への教育内容、過程について綴った1801年、1806-7年の論文をそれぞれ、「第1報告」、「第2報告」と言いならわしてきた。そしてそれらが「イタール実践」のすべてだと考えてきた。
 ブルヌヴィル編集の『特殊教育叢書』を調べていたら、その第2巻が「イタール」。『アヴェロンの野生児』に対する実践、すなわち白痴教育の先駆けとして、位置づけられている。当然セガンの名も編者の序文に見ることができる。全体をざっと見回していたら、Mémoire sur le mutisme produit par la lésion des fonctions intellectuelles(知的機能の損傷によって生じた無言症に関する論文)と題したイタールの論文が載せられているのを見いだした。これは『王立医学アカデミー論集』第1巻(1828年創刊)に掲載されたものの再録である。この論文と「第1論文」「第2論文」とを合わせた3論文を対象としてHUSSONという人がかなり長いコメントを書いている。イタールにはこの3論文以外にも多くの論文・著書があるから、『特殊教育叢書』の編者ブルヌヴィルは意味を込めて選び、HUSSONという人にコメント執筆を依頼したのであろうか。そうしてみると「イタール第3論文」として位置づける必要があるのかもしれない。
 1828年と言えばアヴェロンの野生児・ヴィクトールがその年明けに死亡している。

HP(川口幸宏の仕事場)背景写真変更。