何故に詳しいセガン生育史を綴ったのか

 以下は、海輪有氏他の友人・知人より出された問いに対する回答である。もちろん、完成されたものではない。

 「セガン伝」というものは存在しない。イディオの教育の開拓と発展に優れた役割を果たしたオネジム=エドゥアール・セガンの偉業を「歴史的制約を持ちながら今日における古典として学ぶ」(清水寛)対象として捉えるための、いわば前座として、彼の略史が綴られてきた。だから、その時代に生きたそのままの人物像ではなく、あくまでも「今日」というフィルターがかけられた視点が浮かび上がってくる。加えて、「イディオ」を対象とする営みが大きく精神医学が負ってきたというところから、どうしても、近代医学との関わりの大きさでセガンを捉えようとする。わずかにと言っていいだろう、その厚い壁を打ち破り新たなフィールドを教育に求めることで、新しいセガン像が誕生させられた。後者の立場の研究ではアメリカのマーブル・タルボットの博士論文が嚆矢となっている。
 セガンの教育論の形成過程はどのようにあったのか。それを解き明かすためにセガンの生育史が着目された。いや、正確に言えば、セガン自己語りの生育史が着目された。要は、セガンが幼少期にとりわけ父親のルソー『エミール』流の「自然」主義的な子育てを受けた、と回想している文言(『教育に関する報告』1875年)に、セガン研究の世界はもっとも意味を持たせ、セガンのイディオ教育の思想的な源であるとした。例えば、次のように言う。
「エミールの影響は大変大きく、特に父親たちは、自分の子どもたちに劣らず、この本の示す、自然の教授法に興味を示した。幼稚園でも自然に親しむ教育が行われた。学校で使う教科書を持ちやすくするのだと言って、本のカバーを破ってしまったりした。彼もまた、時代の児として、ルソーの強い影響のもとに、子どもの自主的能力や自発的活動を基礎として、生活の中で実物と経験を通して教育されたのだった。長ずるに従って、科学に目覚め、社会に関心を持つに至った根源が、この時代の彼の教育にあったようにも思われる。」(津曲裕次「「白痴の使徒エドワード・セガンの生涯」1986年、より概略)
セガンが幼少期についての回想で、『母親たち、特に父親たちは』、また『われわれは』と記述していることからも窺えるように、郷里クラムシーの町があるフランス南部のブルゴーニュ地方の、少なくともセガン家のような中流・上流階級の市民の間では、『エミール』に示された教育思潮が家庭や幼稚園での教育に一定の影響を及ぼしていたことが分かる。(清水寛「ルソー『エミール』の自然主義教育の思想とセガンの生理学的教育」2004年、より概略)
 津曲、清水両氏の論のバックとして信奉されているのが、ルソー、『エミール』、「自然」であることを読み取ることができるのもさることながら、セガンの自己語りそのものが疑いさえ挟まれないでいる。セガンの父親は、近代精神医学の開祖フィリップ・ピネルの元で学んだ医学博士である、ということが両氏の信順の源でもあるのだろう。セガンの父親は進歩主義者である! と。その父親の薫陶を得たからこそ、セガンは、イディオの教育の道に分け入ったのだ(津曲)、それもあるが、クラムシーという風土が「自然」主義的にセガンの人格のコアを作ったのだ、そのコアがイディオ教育を開拓させ理論化させたのだ(清水)と言わんばかりである。
 ここには、セガンの自己語りの検証という手続きが抜けているばかりか、社会科学的な時代論が構築されていない、という問題が大きくある。ぼく自身の問題関心から言えば、人格形成における習俗や家族関係の考察が、両氏には微塵も見ることができない、という<問題性>を見出す。かつて『私の中の囚人』(高文研)を上梓した身からすれば、起点と終点とを一直線に結ぶような人物像など信順に値しようか。いや、それはイディオ教育論とは枠組みが違うでしょうが、という自己内葛藤に忠実に耳を傾けながらも、やはり、「ありのままのセガン」からこそイディオ教育が誕生し、それを発展させるエネルギーが湧出したとする人物研究は不可欠だろうと考えた次第である。
 それにしても、近年のフランスにおけるセガン研究においても、セガンという人物をこの世に送り、育て、社会化させたであろう家族関係に関わって、父方は本文に記述されるが、母方はよく探さないと分からない脚注扱いとなっている。ましてやフランスにおける子育て習俗については記述から完全に見放されてしまっている。両親がおりながらその両親がきちんと描かれない生活やその時代の習俗と関わらない生活があるとすれば、一切の社会関係、一切の自然的関係を抜きにするしかない。そんなことなどありえないことは、誰でも承知しているのだけれど。いや、起点と終点とが一致していることを見いだしただけで、時代社会におけるセガン像など考えもしないよ、との声が聞こえてきそうではある。

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