病弱児童の教育へと進展を

 全ての子どもたちが教育を受けることができるようになったのはーもちろん制度上のことー、フランスの場合、1833年のこと。ギゾー法という。一部無償であるだけで、基本的には有償であった。セガンがイディオの教育に取り組んだのは、私的教育を端緒として、1840年1月彼自身が開いた私立学校からである。翌年1841年10月からは男子不治者救済院に収容され治療を受けていた10人の子どもの教育に携わる。肩書きは「イディオの教師」である。1843年1月から同年12月中旬まで、男子養老院(通称ビセートル救済院)内に開設されていたエコール(学校)で「イディオの教師」として教育に携わった。男子不治者救済院を綴る記録にはエコールという言葉(概念)が登場しないから、セガンはエコール整備過程で教育に携わったのだろう。ここの子どもたちとともにセガンはビセートルに身柄を移すことになる。ビセートル内に設置されたエコールは、諸記録に示されているところでは、公教育機関である。
 病院(救済院、施療院)に収容され治療を受けていた子どもたちに教育はどの程度施されていたのだろうか。フランス革命以前の記録もあるが、今ぼくが資料を求めているのは、フランス革命以降、近代公教育整備過程におけるそれである。現在ネッカー子ども病院と呼ばれる機関には院内学校がある。その歴史はセガンの時代より前にさかのぼる。ギゾー法以前のことであるから、有償教育だったのだろう。その他の病院の子どもたちは、教育を受けることができたのだろうか。そのあたりを、収集資料を基にして、探りつつある。
 今日の鶴猫荘はパリの抜け道