焦り始めてます

 育療学会から寄稿のすすめをいただいた論文、史料的限界から脱し無いまま今に至っている。「セガン」を書くしかないか、今の時点で。
 セガンの教育論を改めて紐解いた。1846年著書。次のような記述に、今更ながら、注目する。
L'éducation des seules facultés intellectuelles, par la mémoire seule, telle est la lèpre vive des temps moderns.
「記憶だけに寄りかかる、知的能力のみの教育、それこそ現代を冒涜する害毒である。」 出版されている翻訳書では「記憶力だけを当てにして、知能だけを教育することは、現代の活気ある癩病である」とあるのだが・・・。
で、セガンは具体的にどのような教育をよしとしているのか。
Et quand je demande que l'éducation embrasse l'homme tout entier, facuttés, fonctions et aptitudes comprises, au lieu de développer une seule faculté, la mémoire, au détriment de toutes les autres facultés et de toutes les aptitudes physiques et physiologiques de l'individu.
「で、私が望むのは、教育が人間を、能力、機能及び適性の全体で捉える、ということだ。他のあらゆる能力や個人に備わっている心理学的生理学的なあらゆる適性を犠牲にして、たった一つの能力、つまり記憶を発達させるのではなくて。」 同上訳書では、「そして記憶という一つの能力だけを発達させ、人間の持つ他の全ての能力や心的、生理的性向を犠牲にするのではなく、教育が能力、機能、性向を含む全一的な人間を形成することを要求する。」とある。l'éducation embrasse l'homme tout entier, facuttés, fonctions et aptitudes comprisesの訳文には慎重でありたい。「全一的な人間」というテクニカルタームでよしとするのか。検討したいと思い、ぼくの訳にした。文章構造から考える必要があろう。
 ・・・と、こんなところで踏みとどまっていてはいけないけれどねぇ。