フレネ評価を巡って
昨年亡くなられた大教育学者K先生はフレネ教育を肯定的に評価されることは決してなかったという。やはり昨年亡くなられたW先生は、K先生と共に我が国の生活教育の発展を強く願っておられたが、K先生とは逆に、我が国にフレネ教育を実践的にも理論的にも根付かせた方だ。両先生の正反対とも思われる教育学の立場をどう見るのか。W先生はつねづね「K先生はフレネには教育課程(カリキュラム)の系統がないと強く批判的であったが、ぼくは教育課程の系統は子どもが作る、と反論したが、受け入れられない。」と言っておられた。つまり、「教育課程の系統は教師の導き=指導による」というのがK先生ならば、「教育課程は学習者の必要から生まれ必要によって系統化されていく」というのがW先生。
これを、「フレネもコミュニストであったのに、何故(コミュニストであった)K先生はフレネを受け入れようとしないのだろう。」という「イディオロギーの問題」に収斂させてしまうのは危険かつ誤りだろう。それでも「コミュニスト」問題を取り上げるのなら、フレネの教育は「ブルジョア的だ」と、当時のフランス共産党によって、また先進的な教育学者によって(我が国の教育学者を含む)批判されたこと、そしてフレネは、「ソビエト共産党の娘」とまで言われるフランス共産党によって除名されたこととあわせ考える必要があろう。つまり、国際的コミュニズム運動の路線と絡んでくる、ということだ。
さて、K先生はいかなる路線を選択しておられたのか。そしてフレネ教育を「ブルジョア的」だと評したのか。そうではあるまい。「教育課程の系統」を科学化出来ない、それでは普遍性を持たない、と批判されたのだと考える。K先生の『生活教育の理論』から容易に推測されることである。
「今を生きる」子どもたちに「今」を保障したい。ぼくは心底そう思う。だから、フレネ教育を支持する。
それにしても、「日本生活教育連盟はフレネ教育を認めたことはない。」とのたまわった方が、日本生活教育連盟の重要な位置を占めておられるし、フレネ教育実践を研究会で報告しておられる。この方が言う「日本生活教育連盟は…」という時の「日本生活教育連盟」は「K先生」と同義語なのだな、とつくづく思う。
【追記】K先生は「生活綴方」を肯定的には評価しておられない。戦前の「生活教育論争」に関わるご論稿を拝読し、強く感じたこと。「生活綴方」はカリキュラム化不能だと言われ続けましたものね、教育学の世界では。文章表現指導の系統化という試みが為されたこともあるけれど、それでは「今」の「子ども」の「今」を捉えることは不可能だと思ってきています、ぼくは。