『朝もやの運河』

 ディスクを整理していたらぼくのセガン研究の第一稿『朝もやの運河』がにょっきりと顔を出した。「あとがき」を見ると、2005年2月20日が稿了とある。拙著『知的障害教育の開拓者セガン』の方が確かに資史料による検証がしっかりしてはいるが、筆の運びは『朝もやの運河』の方が生き生きとしている。歴史に関する問題関心の抱き方が妙に教育臭くなくていい。自分で言うのもなんだけど。その「あとがき」を再現してみよう。
「パリ北東部にラ・ヴィレット貯水場がある。この貯水場は、ルルク運河とサン=ドゥニ運河とを結んでおり、1806年から貯水され、運河を航行する船舶のドッグとして利用された。このラ・ヴィレット貯水場とセーヌ川とを結びつける水路が建設された。貯水場から南下する水路は、バスティーユから地下水路となってラ・セーヌのアルセナ水門に開いている。ケ・ドゥ・ラ・ラペーあたりである。運河の名前をサン=マルタン運河と言い、1825年に開削された。サン=マルタン運河の開通は、パリの近代工業化を一気に進めることとなる。非常に重量のある工業資材の運搬が可能になったわけで、とりわけ10区、11区、12区(当時のパリ市内)および19区(当時はパリ郊外)に工業・産業地帯を誕生させることとなった。このことによって、パリには大量の工場労働者群が誕生する。ただ、その労働者たちが住むところは家賃や物価が高いパリ市内ではなかった。このことはまた、パリ周辺地の変貌を急速に進めることになる。後のさまざまな革命や運動のエネルギーの源の一つでもある。
 陸路を馬車で引っ張って資材を市内に運んでいたときの生産量や創られる文化と、水路で大量に工業資材を運ぶようになってからの生産量や創られる文化との間には、かなり大きな落差がある。この落差を生み出すもととなった運河の発案者であり施工命令者であったナポレオンI世の「近代化」に果たした役割の大きさに、つくづくと、思い知らされるものを感じる。ルソーによって子どもは発見されたと言うが、その子どもたちは、近代工業化のもとで、低賃金かつ過酷な単純労働形態という「新しい子ども隠し」の状態に置かれることになる。すなわち、「子どもも人間である」ことは「人間とは〔権力者・支配者から見ると〕搾取・隷属の対象であり、使い捨ての道具でしかない」とみなされた初期近代社会においては、子どもは絶好の「道具」〔消費財〕であったわけである。運河の開削はこうした新しい「子ども観」をも開削した。
 ・・・エドゥアール・セガンの目に映ったサン=マルタン運河とは、どのようなものであったろうか。彼の故郷クラムシーからパリに運ぶための薪材の集荷場であり、かつ出荷場であった運河を、懐かしんでいたことだろう。運河という名称は同じであっても、方や子どもたちに過酷な単純労働と不健康をもたらす産業を興す源であり、方や子どもたちに創造性と工夫と共同と、そして何よりも健康とをもたらした地場産業を支える源。そして前者が栄えることによって後者が衰退していくという歴史の皮肉。この二つの狭間期に、ちょうど、セガンは立っていたわけである。
 本小論のタイトル『朝もやの運河』は、運河開削によってもたらされた様々な社会矛盾とその克服方向を知的障害教育において解決を図ろうとした一人の教師エドゥアール・セガンのフランス時代の足跡を象徴したものである。そのことを本文から読み取っていただければ望外の喜びとするものである。」