続ヘチマのたわごと―セガンはパリで、「リセ」で学んだのか「コレージュ」で学んだのか

 お偉い先生方にはどうでもいいことなのだろうけれど、ヘチマはスカスカ頭から空気がスゥスゥ漏れるのが気になって仕方がない。
 いずれのセガン研究も、セガンは「リセ、サン=ルイで学んだ」と記述されている。セガンがパリで学び、政治運動、文学活動、そして白痴教育に携わったのは、1830年前後から1850年前後、ナポレオン帝政をとっくに過ぎた王政体がほとんどを占める時期である。さてこの期のセガンを説明する土俵としてどうしても必要なのは次のこと・・・
フランス革命当初からしばらくは初等教育を含めた公教育制度の改革が議論され着手されるが、その多くは形になることはなかった。教育改革で、形になり、後のフランスにおける教育制度のあり方に強い影響を与えたのは、何と言っても、ナポレオン・ボナパルト統領下の改革である。それは、1802年以降漸次すすめられていくが、教育改革は主として中等教育以降に精力が注がれた。このことによって、それまでの、エコール・プリメール(初等教育機関)、エコール・スゴンデール(中等教育機関)としてのパンシオン(パンシオナ)、アンスティチューション、コレージュに加え、中等教育機関のリセ、高等教育機関としての学部(ファキュリテ) が新しく設置された。さらに国家的エリート養成のために各種のグラン・ゼコールが設置された。グラン・ゼコールは学部とは学校体系が異なる高等教育機関である。 すべての学校はウニヴェルシテ に統括され、フランス全土をアカデミー(学区)に区分した。また、バカロレアもナポレオンI世によって導入された制度である。さらに特徴的なことは、カトリックに基づく宗教教育が重視されたこと、中等学校では校長はじめ学監、学習補助教師(自習室での監督・指導を担当する教師)などが単身赴任で共同生活を命じられたことである。生徒が厳格な共同生活を強制させられたのは言うまでもない。そのモデルになったのはプリタネと呼ばれる軍人の子弟のための無料の教育施設であり、具体的にはコレージュ・ルイ=ル=グランであった。したがって、とりわけリセは厳格な軍隊式訓練を伴う共同生活が要求された 。
 ナポレオンによって整備されたこの教育システムは、彼がワーテルローの戦いに敗れて後の復古王政時代にも、原則的に引き継がれていった。ただし、リセについては、1815年8月にその名称を「王立コレージュ」に変更することが決定された 。名称が変更されても、その教育システム・内容・方法などに特段の変更があったわけではない。(『朝もやの運河 知的障害教育の先駆者エドゥアール・セガン』ヘチマ著私家版、2005年2月)>
 最後の、「リセ」が「王立コレージュ」に変更された、ということは、セガンの生育史にあてはめることが可能ではないか! 否、あてはめなければならないのではないか。すなわち、セガンは、「パリのリセ、サン=ルイ」にではなく、「パリの王立コレージュ、しかもその中でも5校しかない特級コレージュの一つ、サン=ルイ」に進んだのだ。・・・とヘチマ頭は考えるわけです。
 「そんなん、どーでもええやん、今はリセ、サン=ルイなんやから。」
 またしても、ヘチマはぶったたかれるのだろうなぁ。痩せても枯れても、お背中を流す道具には変身いたしませんけれど。
☆この件に関してはHP「川口幸宏の仕事場」にアップしてある報告舌切り鄕旅日記(川口幸宏)より「幻のコレージュ」(修正・加筆)の注記においてやや詳しく説明している。