ぼくの旅、こんな旅

 あと1ヶ月後に迫った2年ぶりのフランスへの旅。体の衰えをしっかりと自覚しないと、姫様に警告を発せられるごとく、「道で倒れないで下さいね。」ということになりかねない。
ルーブル、行きましたか?」
 さまざまな人がぼくに是非とも行きなさい、と語るパリ光景を心象風景風に写真に落とすと、こんな図柄になる。


  要するに、とってつけたような「知った気」になって、つまり、「知ったかぶり」「分かった喜びぶり」というふうに、「ブリ」という檻の中を右往左往して外面だけ眺める―そう、上の写真のように―、それが何ら日常生活に生きてこない「無駄」を排したい、それだけのこと。ぼくの写真アルバムにはぼくだけの世界が残される、それだけのこと。
 「今度こそ行きなさいな。」「行きません。」「じゃあ、どこへ行く気だい?」「気の向くまま、足の向くまま。」
 ある年のある一日の「旅日記」よりー
☆ ☆ ☆
 朝9時に宿を出る。サンタンブロワーズ駅で定期(地下鉄、バスが乗り放題で、大層便利。この時は一週間定期)を購入。その足で9号線終点のポン・ド・セヴル(セヴル橋)に向かう。パリの西端を意識した行動である。橋の上から、橋の側面から、橋の下から、セーヌ川を眺める。沿岸に、パリ・コミューン写真でおなじみのサン・クルーの光景を見いだし、感動の一時を過ごした。


 11時過ぎにポン・ド・セヴルを発し、9号線ショッセーダンタン・ラファイエットで下車。約1時間をかけて、セガンの居住地・活躍の場の検証を行う。ショッセーダンタン通り、モンシニ通り、サンタンヌ通り。サンタンヌ通りの住居表示が28番、その隣は道路となり道路の対面が16番となっていた。どう見ても間違いの数列なのだが、今まで気づかなかったのだろうか?(写真は順に、ショッセーダンタン通り、モンシニ通り、サンタンヌ通り)



 パレ・ロワイヤル近辺で通訳氏と落ち合い、昼食をともにしながら、明日の調査の打ち合わせ。3時過ぎに別れ、ホテルに向かう。気がつくとレプブリーク駅を過ごしてしまい、次の停車駅がペール・ラッシェーズであることに意味を持たせようと自身に言い聞かせ、下車。先ずは墓地の外壁の外を廻る。パリ・コミューンのモニュメントにさしかかると、残念な光景。モニュメントに白い塗料で大きく落書きされていた。今までにない光景に相当のショック。この出来事は、今回の滞在の意義を皆無にしてしまうほどの精神的な痛みを感じさせられた。
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 墓地内で連盟兵のモニュメントのあるパリ・コミューン広場で気持ちを落ち着かせ、後は戦争や差別・虐待の証となるメモリアルゾーンにしばし心を寄せながら、墓地を出た。

この壁を背に10人ずつ10数回、射殺処刑が行われた。

 墓地には、2000年滞在の折、しばしばアパルトマンから散歩をかねて出かけてきたものだ。その当時を思い、帰路の手段として徒歩を選ぶ。アヴェニュー・レプブリークをひたすらレプブリーク方面に向かう。途中で、路上の貧相な果物売りからブドウを一房購入。2ユーロ50サンチーム。まだ口には入れていない。レプブリーク通りと宿のあるフォーリー・メルキュール通りとは交差している。久しぶりに距離のあるところを徒歩利用。もう、足がパンパン。
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 こんなん誰が「ご一緒したいわぁ」なんや?もし「ご一緒」したことが知られたら、バカにされ、シカトされますよ。「えーっ、パリに行ってルーブル行ってないの?信じらんなーい。ベルサイユも行ってないの?バカじゃないの?」