「歴史」の捉え方

 昨日の記事で、パリ・コミューン下での一つの出来事に対する二つの詩編を紹介した。そのうちユゴー詩編パリ・コミューン史叙述でたびたび引用される。大方はユゴーパリ・コミューン側(つまり、反ヴェルサイユ政府側)に身を寄せていたと理解してきている。このことに大いに有効であったと思われるのが、パリ・コミューン側の政治戯画家ピロテユ(Eugène Pilotelle 1845-1918)が1874年に亡命先のロンドンで出版した戯画集 "Avant, pendant et après la Commune"(『パリ・コミューンの前、間、そして後』という作品である。次はその作品の一つ。


 処刑現場で壁を背にして悠然と立つ少年。周りには処刑死体が転がっている。絵の下には、ユゴーの詩集『恐ろしき年』のJUIN(6月)の項VIから引用された詩が添えられている。この少年処刑の出来事は1871年6月の始めにあったと伝える新聞が存在すると言われるが、ぼくは未見である。従って、昨日ブログで少し触れたように、少年は放免されたのか、処刑があったのか、その実際のところは確かめていない。そして、もし6月始めのことだとしたら、「パリ・コミューン」は5月最終の「血の惨劇の一週間」で潰えた、ということとどう関係してくるのか、そのあたりも問われなければならない。
 だが、ピロテユが絵に添えている詩の末尾は「壁を背にして、人々に言った、ただいま、と。(Vint s'adosser au mur et leur dit : Me voalà)」で結ばれている。
 この結末記述から、読者は当然、少年に対する処刑が行われたと、理解する。ただ、事実理解だけではなく、パリ・コミューンはこの少年に例を見るように勇敢で死さえ怖れない、一方ヴェルサイユ側は少年さえも問答無用の処刑をする不正義の残虐非道の輩だ、という評価理解を併せて提供されるだろう。まさに「両の目は悪魔の将校をキッと見据えながら。」(シャルル・ヴェルク)少年は斃れていっただろう、と。
 だが、その「読み」は、まったくユゴーの創作リアリズム精神を歪めるに他ならない。ユゴーは、先の詩編に続き、空行を一行置き、La mort stupide eut honte et l'officier fit grâce.(愚かな死は不名誉である、それで将校は放免した。)としているのだから。
 
 引用者は引用者の思想で文言を操作する。典型的な事例であり、それは同時に、原作者評価を大きく転換させるものである。あってはならないことが、「正義」や主義主張のためになされてきたわけである。
 「セガン研究」でも同じようなことがなされてきたが故に、ぼくは、頑なに原典主義を貫いてきている。「孫引き」や「ご都合主義的部分引用」で綴られた研究を信任するという愚は、もういい加減にやめにしていただきたいものである。