今回の旅も「余録」にあずかるか?

 もう何年も前の旅日記より―
 旅にはいつも余録が待っている。いつものように、パリ第5大学大学院のK君がその余録を運んでくれた。
「先生のエッセイを読んで、とてもおもしろい、と言っていた人をお目にかけます。Iさんと言って、フランス人をご主人にしている方です。とてもすてきな方です。先生に是非お会いしたい、夕ご飯をご自宅にご招待したい、と言っておられます。」
 人見知りの激しいぼくは、新しい人との出会いを、その人の懐の内で持つことに対して極めて臆病になる。だから、ぼくは、ディナーのその日の朝から緊張の極限にあった。いつものように街を歩き回り建物を眺め、壁を見つめ、石畳を味わう散策をしながらも、「新しい発見」への好奇心はあまり働かなかった。ようやく夕刻8時、外はまだ写真をフラッシュなしで撮ることができるほどの明るさの中、K君に伴われてIさんのアパルトマンを訪ねた。いったん訪問をし、緊張が次第に和らいでくる気持ちを感じると、ぼくは饒舌になっている自分を発見する。なぜそうなのか、そのたびに自分でも不思議に思うし、饒舌さが他人に対して不快を感じさせるであろうからやめた方がいいに決まっているのだが、それが分かっていてもしゃべり続ける。おそらくそれは自己防衛なのだろう。幸いにもIさんはその饒舌を受け入れてくださったようで、次の日、K君から、「Iさんからファックスが届いていました。先生はおもしろい方でいられる!道草人生を送られてきたことを知って大いに先生のファンになりました。云々」という連絡が入った。うーむ、道草人生か・・・・。なるほど。道草を羞じる日本の文化に浸っていながらもあえて道草人生を人様に語りつづけてきたぼくのひねくれ根性に、辟易されるのかと思っていたが、その逆であったとは!
 Iさんの住むアパルトマンはパリ6区セルバンドニ(SERVANDONI)通りにある。ロベスピエールが革命政府を置き「至高の存在」と落書したサン=シュルピス教会の側面にぶち当たる通りである。この近辺の建築物はフランス革命期以前からのものだそうだ。度重なる革命の動乱、オスマンによるパリ大改造、プロイセンによるパリ侵攻、パリ・コミューンの時の「パリ燃ゆ」等々、都市を破壊した歴史の荒波を直接受けることなく、静かにたたずまい続けてきた、パリの中でも数少ない地域である。
 その建築物一つひとつを確かめるように見ながら歩いていた。すると、18番と20番のちょうど真ん中に、つまり、壁がくっついているけれども二つの建築物の境目に、填め込まれた年号を示す1998という数字を刻んだ新しい顕彰パネルがあった。それには次のようにある。
Olympe de Gouges
1748 – 1793
Auteur de la Déclaration des Droits de la Femme et de la Citoyenne
 一瞬、フランス革命期に出された例の「人権宣言」を思いついた。そして、愚かにも、オランプ・ド・グージュなる人がその執筆者(発案者)であり、その場所で生活をしていたのだろうと考えたわけである。カメラのファインダーをのぞいてアングルを定めているうちに、いや、待てよ、違うぞ、と思いなした。例の人権宣言はDéclaration des Droits de l’Homme et du Citoyenである。Hommeを「人間」、Citoyenを「市民」と訳し、「人間と市民の諸権利宣言」というのが我が国で知られているものである。ところがパネルはFemme、Citoyenneとなっている。それぞれ「女性」、「女性市民」との訳語になる。パネルは「女性と女性市民の諸権利宣言」を示しているわけである。フランス革命期に女性の権利についての宣言が出されている、近代フェミニニズム運動の起点である、ということは幾度も耳にしていたけれども、それを示すフランス語タイトルについてはまったく無知であった。
 今更ながらの説明は意味がないけれども、それにしてもぼくにとっては、フランス語の持つおもしろさ、それを使いこなすことによって機知が生まれ、歴史が新しく作られることを実感的にすることができた瞬間である。Hommeを「人間」と訳する。ぼくなど浅学の者が「人間」という日本語にぶつかった時にはそこには無性の単語(名詞)しかイメージすることができない。しかしながら、フランス語ではHommeは男性名詞として扱われる。そしてHommeに対する女性名詞Femmeには「人間」という訳義はなく「女性」となる。当然、両性が存在する「人間(男女)」に対して、方や「人間」(無性)と「男性」を意味するHomme、方や「女性」を意味するFemme。「言葉」の歴史そのものの中にも「男性中心史」を見ることができるわけである。男性中心史に異議申し立てをし、社会や政治を女性の目から捕らえなおしたオランプ・ド・グージュの「女性と女性市民の諸権利宣言」は、このような言語的特性に目を向けた「人間と市民の諸権利宣言」に対するパロディにもなっており、かつ、重要な「性」束縛からの解放を通して、普遍的な「人間」(ホモサピエンス)解放へと向かわせる契機となったわけである。
 もちろん、オランプ・ド・グージュへと誘ってくれた今回の旅の余録は、ぼくの歴史感覚、人間認識を豊かにしてくれるであろうことを強く予感させてくれた。言うまでもなく、次の日、いくつかの書店を回り、彼女のことを知るための諸資料を求めたのである。その成果は、そう遠くない日に、Déclaration des Droits de la Femme et de la Citoyenneの全訳を果たすことに現れることであろう。
 そういえば、我が教育界で忘れてはならないコンドルセは、フランス革命期にあって、数少ない女性の政治的参加を主張した男性であった。彼はそのせいで逮捕拘束され、獄中で自死を遂げるのだが、彼が追っ手から逃れ一時期かくまわれていたのが、オランプの住むアパルトマンの斜め前、15番のヴェルネ夫人宅であった。K君の壁面パネルを探す目はコンドルセのその証拠であったことが印象深い。
 オランプもまた恐怖政治が始まった年に処刑台に登らされる。ギロチンで落とされた首が手で持ち上げられている戯画(リトグラフ)が歴史の残酷さを今日伝えてくれる。処刑理由「女の身でありながら政治家になろうという野望を抱いた」。当時の新聞の論調は、J. J. ルソーが『エミール』で描いた新しい女性像(子どもを母乳で育てる――それはけっして農村婦人像をモデルにしたものではない)に従って、「祖国と自然と良俗の名に従って、女性は家庭に帰れ」であった。ルソーは、子ども期と青年期を発見し、それぞれの期を過ごしえたすべてのhommeを解放すると共に、そのためにこそfemmeに新しい「囲い込み」を求めることになる。その「囲い込み」の中で生きる女性は、主として、中産階級に属する。「総中産階級化」をなしえた我が国でルソーが持てはやされてきたし、しているのは、必然なのかもしれない。