久し振りに「デカンショ節」

 授業の「声」で、「今から教壇を降りて皆さん方にお話しします、という教師がいました・・・」というのがあった。「教壇」が無くなっている現状の中で、この声の主の「感性」が学生たちにどれほど理解されるか不明だけど、ぼくはこれに飛びついく、今週の金曜日
 「教壇」はハレの世界。教師という職能に教壇が必然であったのは、ハレを生徒たちに内容形式共に語り、伝えることであったから・・・。戦前、「ハレ」の世界に疑念を強く抱いた旧制中学生、旧制高校生は、「デカンショ節」を唱って、ハレの世界を皮肉った。
 デカンショデカンショ、で、半年暮らす、ヨイヨイ。後の半年ゃ寝て暮らす。よーいよーいデッカンショ。
 教師、教師、と、威張るな教師、ヨイヨイ、教師教壇の、飾り物。よーいよーいデッカンショ。
 そして日常世界の「ハレ」の象徴。「父親」(おやじ)
 おやじの あたまに たくわんのせて よいよい おやじこれ見よ 親コウコウ ヨーイヨーイデッカンショ。

 若者はその時代社会の「ハレ」とぶつかり苦悩し、自身を見つけていく。ぼくの青年期はそうだったな。デカンショ節を唱うのは一年に一回。文化祭のファイアーストームを囲む場で。校長も教師もその輪の中にいて、銅鑼声を上げて、唱う。そういう青年期論を、語る時は・・・まだだろうなぁ。