セガン生誕200年

 今日1月20日、200年前、フランス東部の小さな町クラムシーで、オネジム=エドゥアール・セガンが誕生した。ぼくが彼を歴史上の存在者だと意識し始めたのは2003年のこと。しかし、その時、彼の歴史的偉業については理解したが、彼が歴史過程の中でした「呼吸」については皆目不明だった。それから約10年の歳月が経ち、人生前半期について他人様に語れるほどには学習をした。
 その学習過程の中で、アホもたいがいにせい、と罵りたくなる−口が悪いが感情はまさにこの通りなのだ−人との出会いも幾つかあり、それらはきわめて不愉快な出会いとして、この人格的に出来の悪いぼくの精神に銘記されている。おそらくこの不愉快感情は終生晴れることはないだろう。研究者は研究的に、実践家は実践的に、そして「理学療法」家は占い的に、「セガン」を予断と偏見とで評価する。「まあ、それが世の中よ」と冷めた立場を取っていれば、ぼくの中に「セガン研究」は成立しなかっただろう。「怒りを向ける対象」こそが、ぼくの研究的エネルギーの源。20代後半に研究をした上田庄三郎その人の生き方のエネルギーそのものであると、ふと気づいた今朝。
*****
HP「川口幸宏の教育の旅」『セガン『1843年著書』をめぐって」をアップ。セガンの主体性を論じる論文。社会改革家であると同時に教育改革家である実相。