「そんなこと、どうでもええやン。」と言われるだろう…

 エドゥアール・セガンがフランス・パリで、1837年頃から開始した白痴教育はいつまで実践されたのだろうか、そしてその場所はどこだったのだろうか。こんなことを2003年から史料調査を進めてきた。おおよその「出発点」は、
1.聾唖学校のイタール医師の指導に下で白痴教育に取りかかった。 →セガンは聾唖学校の補助教師だった(ブリュ『ビセートル史』初出)。
2.イタールの死後(1838年7月)はエスキロルの指導を得た。 →エスキロルはラ・サルペトリエールの精神科医であるからか、セガンはサルペトリエールで白痴教育に成功し、世間の耳目を集めた(アメリカ、日本での説)
3.1841年-1842年、ド・セブル通りの不治者救済院で白痴教育に成功した(フランス、ブルヌヴィルによる1890年のフランス下院での報告。その後のブルヌヴィルの論説ではド・セヴル通りの名が消え、たんに不治者救済院とされている)。10人もの白痴の子どもの教育に成功したことによってセガンの名を高からしめた。(2.の立場では、不治者救済院での実践はない。ただし、「サルペトリエールの不治永患者院」という説明が為される(日本)。要は、「不治者救済院」は「サルペトリエールの別院」という理解で整合性を図ろうとしている。
4.1843年、ビセートル救済院内の「学校」の教師として招聘された。1843年末にビセートルを離れた。 →ビセートルに「学校」を創設した(日本での説)。
5.ビセートルの後はピガール通りに私立学校を設立した。多くの参観者があった。(ブルヌヴィルによる。今日までこれが真説とされている。)
馬鹿鶴の疑念:
?セガンの実践記録を見る限り教えた子どもは男子。ラ・サルペトリエールもド・セヴル通りも女子施設。男女区別が非常に厳格に為されたフランス革命以降のフランス社会で、男子を女子施設で教育をする、ということに疑念を抱かざるを得ない。→「白痴の子どもなんだから別にいいんじゃない?」(某1談) お口あんぐり
?医学博士に絶対的な権限がある救済院(病院)内に、医学博士でも無学位医師でさえもないセガンが、、どうして「学校」を創設できるのか、あり得ない。→「それだけセガンの実績が素晴らしかったということだよ。」(某2談) ふーん・・・
?セガン自身が1846年の著書―それこそすべての人が絶賛する名著―で、彼自身の手によって白痴教育実践の過程が綴られているけれど、上記した1〜5と一致しない。ということは、セガン自身によって書かれた実践過程は偽りが述べられている、とセガンの著書を絶賛する人びとは判断するわけですね。→「セガンの記憶違いなんだよ。」(某3談) 大きくお口あんぐり
・・・・9月の某学会でのシンポジウム出席は要請があったとしてもやはり断るべきだろうな。「あなたはフランス語は第1?」「いえ、60歳から独習です。」「ぼくは大学で第2で履修しましたよ。今、院生とセガンのフランス語原典を読んでいますよ。」・・いくら「語学の天才的落ちこぼれ」であっても、あの蔑視に耐えられるほどには心臓は強くない。キレて爆発するほどには心臓は強い。