生活者の目から捉えなおす

 『教育学・教育実践論叢2012』を編集するにあたって、丸々空白となるページが7ページほど出た(当初11ページあったが、編集によって4ページ削減に成功)。この空白ページをどのように使うか、悩みに悩んだ。先生方は「よきに計らえ。余は多忙なのじゃ。」なので、ぼくの勝手気ままに使えるページだと考えればずいぶんとありがたいといえばありがたいが、飛び飛びの空白ページなのでページ単位で「読み切り」が求められる。「コラムエッセイ」とタイトルし、題材を統一して、ストーリーを持たせる、なおかつ教育を論じる書物にふさわしい内容。
 セガン?フレネ?パリ・コミューン?ホール・ランゲージ?大正自由教育?生活綴方?戦前教育運動史?地域に作った「竹学校」?我が教育実践、教育学研究史を項目羅列をし、それぞれのトピックをメモし、資料(写真も)を準備する…。どうもピリッと来ない。ぼく自身の中に、とりあえず決着を見ている、ということからなのだろう。どのような低劣な決着であろうと、一端シャッターを下ろしたら、あげるにはかなりの力が必要となることは自明のこと。
 これまでジャマイカ訪問記を語ることがあったにしても、「あ、ハチドリ!」「あ、ヤギ!」「あれー、ロバが一人歩きしている」などと自然賛美が中心で、「人の呼吸」を綴ってこなかった。折角 アフロ・ジャマイカン生活語Afro-Jamaican Patoisに問題関心を持ったのに、それをまったく深めることができなかったことの自省さえしていない、それを足場にして、新たな研究課題とすることもあっていいではないか。
 そんなこんなで、総7ページエッセイ「ジャマイカ中央山岳地方の子ども・教育」を綴ってみた。「子どもは学ぶことができる。子どもは学ばなければならない。」という標語(学習権と学習義務)が象徴するジャマイカの近代化のツールとしての初等教育。あちこちに集落を形成しているスラムと貧困の中で生きる子ども。キラキラと目を輝かせて未来の自分像を語る村の子どもたち。等々、文章としてはまとまらずとも、問題の整理を手がけ始めることができたなぁ。