「本当に悲しい目」

 教育基礎の授業終了後研究室に戻ると、非常勤職員のNさんがいらしていた。今日、帰宅をご一緒する約束をしていたため、ぼくの部屋で待機して待っていて下さったのだ。Nさんの鋭い観察の言葉、「本当に悲しい目をしているわ!」この一言がぼくの今日の教育基礎の授業の顛末評価を端的に示している。このクラスは先週、私語に夢中でかなりの間、授業に参加していないペアグループを厳しく叱責している。落ち着きのないクラスというか、ぼくが彼等に投げかける言葉「何のためにここに来ているのだろう。」という雰囲気が強く漂う。300人近くを収容できる大教室であるということも影響しているのだろうか。
 今日は近世から近代にかけてのヨーロッパ・日本の庶民教育の実情がメイン。抑圧・排除されてきた人びとへの福祉と教育の「目」も誕生する社会状況。庶民が何らかの「知性」(教養)を自ら求め始める時代性でもある。「やらされる」ではなく「自らが望む」学習要求が実践的形態を持つ。ただし、「知性の操作」が意図的に、あるいは容易に為される時代相でもある。そういう意味でも庶民は「騙される」学習状況に陥らされてもいる。―このような内容を図版資料を用いて説明した。
 ・・・・スマホ!を堂々と眺めている学生がいる!瞬時、先週、焼き鳥コンパの席で目撃した光景が脳裏に浮かんだ。男性3人女性3人のグループが臨席で賑やかにやっている・・と思いきや、一人の男性が身振り手振りも賑やかにあれこれ話題を振っている。が、他の男性ふたりはスマホ画面にただ目を落とすだけ、表情一つ変えない、つまり、合コンの場にいるけれど完全にコミュニケーション拒否をしているのだ、そしてそれを誰も注意せず、まるで彼等2人が存在しないが如き様態。これが「現代」なのか!強い衝撃を受けたのだった。「やさしくて冷たい」関係を作るツール、スマホ
 授業中の私語や携帯使用は使用を禁止する旨は申し渡してある。その代わり出入りの自由を認めている。そういう申し合わせがいとも簡単に破られている目の前の光景、なおかつ、これ見よがし、堂々とスマホ画面に見入り、耳にはイヤホーン。直ちに室外に出るように注意したがまったく動じない態度だったので、その場ー教室のほぼ真後ろーに行き、退室を直接命じた。
 ようよう退室していったが、スマホ画面に見入りながら授業教室にいるおのれの姿を堂々とさらしている、という光景は大学教育経験でも初めてのこと。ショックがあまりにも大きかった。こうした者が「安定職としての教師」というだけで教職課程の履修をするのならば、ぼくは教員養成という仕事に従事し続けることの苦しさ、つらさを味わうばかりとなる。悲しいではないか。