「匿名社会」の次は「透明人間社会」か

 今から20年ほど前、ぼくは青年期論の大きなテーマとして「匿名社会」論を論じていた。そして幾編かは綴った。ただしすべて「匿名からの脱出」論であった。「匿名社会」は今も拡大しつつ持続してるから、ぼくの「脱出」論は、ぼくの主観にも関わらず、敗北している。事実、「匿名だから本音が言える」とし、その「本音」とやらは「否定的攻撃的非難的批判」でしかない。少しも建設的ではない。言われた本人は反批判が到底できない一方通行だ。「匿名」的他者と双方向コミュニケーションを取ることなど不可能である。だが、繰り返すが、一方通行ながらコミュニケーション・エネルギーが消費されている。
 「匿名社会」では説明できない新しい現象、それは「透明人間社会」とでも形容することができる社会だ。コミュニケーションの場において自己の存在を無にし、他者からの関わりを拒否する様態を取る。だから、他者からも「存在」自体が見えない、質量としてはそこにあるのに、だ。巷にはすでに常態として出回っている。友人、恋人、夫婦、家族間でも常態だといってよい。他者から存在を隠している意識行為だから、「誰にも迷惑をかけてはいない」という言い訳が自身にも他者にも為される。質量は厳然として存在するということの意味には考えも及ばないらしい。
 今日、ある学生が「私の出身高校でも、スマホ現象は常態でした。」と語ってくれた。世にいう超進学校だ。受験に向けるというだけの「実学」に教育内容と目標とが定められ、それに煽られていれば、誰だって、「受験実学」に意味のない授業など「参加」する意義など見出せない。他に居場所を持たない・持たせられない日本の若者の悲しいサガ、授業という「場」を放棄することはできず、「透明人間」化することでアイデンティティを定める…。
 そういうところで教員養成に携わるむなしい感情を吐露した。ある学生は「先生、ぜったい辞めないで。」と言ってくれた。また、別の学生の声はぼくへの共感を強く示してくれているように感じられる。「もし先生が大学を辞めてしまっても、私は先生の弟子なので!」 ありがとう、これほど幸せを感じる言葉はない。