「透明人間の告白」(H・F・セイント著高見浩訳、新潮文庫)より

「ここなら、友人たちや、知人たちの近くにいられるという安心感もある。見慣れた顔に接するということは―少なくとも、最初のうちは―心が和むものだ。とはいえ、たとえ顔を見ても、背後をこそこそ歩き回るだけで言葉を交わせない状態が何週間も続くと、感性が鈍りはじめ、他人と一緒にいる感覚が薄らいでくる。」「人びとの顔は無意味な仮面となり、会話は背後の囁きに過ぎなくなる。」
「始末に負えないのは、そういう変化が自分に起きていることに気付かないことだ。自分はまったく以前の自分と変わらないと思い込んでいるのである。」
「僕にとって、周囲の人間たちは、どこかしら夢のように遠くかけ離れた、非現実的存在のように思われる。」

● たぶん、ぼくの言葉は届いていない。「義務教育というのは国民の最低の共通教養を培うことを命題としています。だってそうでしょ、社会に共通する教養もない、個人に共通教養が育っていない、そんな社会や個人が到来したとしたら、どうですか?個人が社会に出て行く、教養を持たないとしたら、その個人はどうですか?その個人だけではなく社会はどうですか?そういう視点からも義務教育の留年の問題を考えてみてはいかがですか?」 しかし、それに対する声は聞こえない。「学力だけが大切ではなく、人間関係を学ぶのも学校だ」という声は出されたが、その「人間関係」とは「馴れあい」「連れあい」を意味している。そしてその「解体」を極端に恐れる声が多数を占める。実感を超えて学ぶという点こそが「学問」であるはずなのだが、「実感」で関係性を裁断するという状況。だが、被差別の側に身を置かされてきた者にとっては「馴れあい」「連れあい」の関係性ほど、恐ろしく、非人間的、非社会的なコミュニティ論はない。そういう主張も出される。ぼくの提案に耳を傾けないとしても、この主張には耳をていねいに傾けて欲しいと願う。