ジャマイカの言語に関して

 丸善のWさんによる情報サーヴィスでジャマイカの言語に関する博士論文を5冊入手した。そのうちの1冊 'Wah Yu Sey Miss?' A study of the Jamaican Creole Speaking Students at Mount Winston: A rural elementary school in Jamaica West Indies を読み進めはじめた。胸がとどろく思い。著者はジャマイカ人。
1.前書きに、懐かしいデブラ・グッドマンさんのお名前があったこと。ホール・ランゲージ研究でご厚誼いただいた方だ。予想通り、この研究とホール・ランゲージとは綿密な関係があると推測される。ホール・ランゲージの提唱者ケネス・グッドマン(デブラさんの父親)の著作が数冊、参考文献一覧に並んでいる。
2.本文を読み始めた。著者の言語経験・生活が綴られている。母語を失っていく過程に強い共感を覚える。学校で正統英語で教師が語る。ちんぷんかんぷんであるばかりか、母語が悪い言葉だとして叱責を受ける、訳の分からない教師の言葉を聞き、板書される文字をノートに書き写す・・・。
 まだまだ興味深く感じられる内容だ。何とか読み通したい。
<自己体験として>
・・・ぼくは日本人だから<日本語>が<母語>である(近代明治政府によって作られた<人工日本語=「国語」>を含めて<母語>と考えられているが、こちらは<父語>とも呼ぶべきものである)、同様に地球上のすべての人が<母語>を持っている、そのことを信じて疑わなかったし、近代史はその<母語>を剥奪し<父語>に統一する歴史であると確信していた。もう少しぼくに即してていねいに言うと、ぼくの<母語>は伊勢弁・伊賀弁を渾然一体に持つ、きわめて制度地理的に制約された閉鎖的な言語である。しかしその<母語>は、日常性から脱するにあたって、放棄しなければならなかった。そして今はその<母語>を使うことは全くない、たとえ家庭内であろうとも、<故郷>に帰っても。<母語>で育ち、<母語>を放棄し、<父語>で武装することで、<日本人>として生きている。・・・(エッセイ「母語性について考える」より)
 こうしたぼくの問題意識とぴったりだと思われるのが、同書であると感じている。