服従

セガンを歴史的制約下にあることを前提に現代的意義を明らかにする〜この文言はセガン研究が本格的に出発した時にその開拓者たちによつて謳われた研究指針の一つである。歴史過程を今という時にそっくりそのまま再生させようとすることは愚の骨頂、だからなぜわざわざそのような課題設定をするのか、アホのぼくにはわからなかった。いや、今でもわからん。
セガンは服従させることが必要だ、というんです」その言い振りは肯定的ではない。ははーん、これが「歴史的制約」ってヤツだな。「指示に従わせなきゃ、教育は始まらないし、自己決定ができるなら、一般で言う教育は不要ではありませんか?」「服従ですよ、人格否定の言葉でしよ。」
セガンが使った言葉はフランス語だから、日本語の服従そのものではない。フランス語辞典で言う服従であり、フランス文化で言う服従であり、さらにはセガンの文脈の中の服従である。いや、日本語の服従そのものが直ちに人格否定につながるのか。(厳密に言えば英語でも)
併せて「権威」。この言葉も開拓者のお気に召さないのだった。「素のままのお付き合い」という情緒を好む我等が風潮を教育に持ち込む世界観でセガンを「歴史的制約」下に置くことに、どのような現代的意義があるのだろう。
あれこれと思いを巡らせ総括をした昨夜。