旅の準備会

朔日はセガン研究の足跡を辿る旅の準備会、学習会。今日は一人で研究史資料確認。
準備会は盛り沢山。モンテッソーリの説明をいただき、旅の興趣が深まった。ぼくのセガン研究の意図や方法が、僕と一緒にゼミで学びあった人たちに理解されていないのではないか、と話題になった。なぜ生活綴方の川口が障害児教育なのか、というのだ。すぐさま、読んでいないからでしょう、と「説明」。たとえ読んだとしても、刷り込まれた観念で「解釈」してしまう。とりわけ、「川口」を知り、「セガン」を知った人ほどその傾向が強い。一人の生育史を歴史過程で解き明かす、しかもフィールドワークを徹底させるという方法は、我が生活綴方ゼミの王道であったはずなのだが、「民主的」という括りに理性を麻痺させられた学的環境の中にあった当事者たちからすれば「俺たちの学びの足跡は見られない」という感に支配されてしまうのだろうな。
セガン研究の第二期の幕開けを告げた清水、津曲、松矢三氏共同発表を改めて読み直す。いずれも東京教育大学院生時代のもの。1968年のことだから40数年前。すさまじいエネルギーを感じる。問題意識が鮮明であり、研究の方向も確かだ。ただ、「横のものを縦にする」という「伝統」に身を委ねているのが明らかに分かるのは、お笑い種。それにしても、バリから200kmの地域を南仏としている愚がこの研究が初発だったことを知ったのは大儲け。
そういう「些細なこと」は事実を提示するだけで解決するのだがーいや、ことはそう簡単でないのが現実であるということは強調しておくがー、セガンの教育思想に「受教育権」思想があるという指摘には検討を進めなければならない。セガンは1866年著書でThe right of all to education was acknowledgedと述べているが、これを受教育権と理解するのはいかがなものか?